安心していらっしゃい。」
しかしどうしても妊娠としかおもわれないところがあった。食べ物の工合も変って来たし、飯を食べると、後から嘔吐《はきけ》を催すことも間々あった。母親に糺《ただ》してみると、母親もどちらとも決しかねて、首を傾《かし》げていた。
「今のうちなら、どうかならんこともなさそうだがね。」
また一ト苦労増して来た笹村は、まだ十分それを信ずる気になれなかった。弱い自分の体で、子が出来るなどということはほとんど不思議なようであった。
「そんなわけはないがな。もしそうだったとしても、己は知らない。」などと言って笑っていた。女の操行を疑うような、口吻《くちぶり》も時々|洩《も》れた。
「私はこんながらがらした性分ですけれど、そんな浮気じゃありませんよ。そんなことがあってごらんなさい、いくら私がずうずうしいたって一日もこの家にいられるもんじゃありませんよ。」お銀も半分真面目で言った。
「お前の兄さん兄さんと言っている、その親類の医者に診《み》てもらったらどうだ。」
「そんなことが出来るもんですか。あすこのお婆さんと来たら、それこそ口喧《くちやかま》しいんですから。」
お銀は三人の子供を、それぞれ医師に仕揚げたその老人の噂《うわさ》をしはじめた。
こんな話が、二人顔を突き合わすと、火鉢の側で繰り返された。火鉢には新しい藁灰《わらばい》などが入れられて、机の端には猪口《ちょく》や蓋物《ふたもの》がおかれてあった。笹村は夜が更けると、ほんの三、四杯だけれど、時々酒を飲みたくなるのが癖であった。
「そんなに気にしなくとも、いよいよ妊娠となれば、私がうまくそッと産んじまいますよ。知った人もありますから、そこの二階でもかりて……。」お銀は言い出した。
「叔父さんが世話をした人ですから、事情《わけ》を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。あなたからお鳥目《あし》さえ少し頂ければね。」
「そんなところがあるなら、今のうちそこへ行っているんだね。」
お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした。叔父が盛んに切って廻していたころのことが、それに連れてまた言い出された。
「その時分、あなたはどこに何をしていたでしょう。」
お銀は自分の十六、七のころを追憶《おもいだ》しながら、水々した目でランプを瞶《みつ》めていた。
「真実《ほんと》に不思議なようなもんですね。」お銀は笹村の指先を揉《も》みながら、呟いた。
十五
朝寒《あさざむ》のころに、K―がよく糸織りの褞袍《どてら》などを着込んで、火鉢の傍へ来て飯を食っていると、お銀が台所の方で甲斐甲斐《かいがい》しく弁当を詰めている、それが、どうかして朝起きをすることのある笹村の目にも触れた。お銀の話に、商業学校へ通っていた磯谷に弁当を持って行ってやったり、雨が降ると傘を持って行って、よく学校の傍で出て来るのを待っていたという、その時の女の心持が二人の様子にも思い合わされた。笹村と通りへ買物などに出かけると、お銀は翌朝の弁当の菜を、通りがかりの煮物屋などで見繕《みつくろ》っていた。そのK―も貸家の差配を例の若い後家さんに託して、自分は谷中《やなか》のもといた下宿へ引き移って行ってからは、貸家にもいろいろの人が出入りしたが、明いている時の方が多かった。
甥は、その空家の一軒へ入り込んで寝起きをしていた。時には友達を大勢引っ張り込んで、叔父の方からいろいろの物を持ち運んで、飲食いをしていた。笹村が渡す月謝や本の代が、そのころ甥の捲《ま》き込まれていた不良少年の仲間の飲食いのために浪費されるらしい形迹《けいせき》が、少しずつ笹村に解って来た。
「新ちゃんは、いつのまにか私の莨入《たばこい》れを持って行《ある》いてますよ。」
お銀は、笑いながら笹村に言い告げた。月極めにしてある莨屋の内儀《かみ》さんが、甥の持って行く莨の多いのを不思議がって、注意してくれたことなどもあった。
机の抽斗《ひきだし》を開けてみると、学校のノートらしいものは一つもなかった。その代りに手帳に吉原の楼《うち》の名や娼妓《しょうぎ》の名が列記されてあった。妾《めかけ》――仲居――などと楽書きしてあるのは、この場合お銀のこととしか思えなかった。
「ああいう団体のなかに捲《ま》き込まれちゃ、それこそお終いだぞ。呼び出しをかけられても、今後決して外出しない方がいい。」
笹村は甥を呼びつけていいつけたが、甥は疳性《かんしょう》の目を伏せているばかりで、身にしみて聞いてもいなかった。そして表で口笛の呼出しがかかると、じきにずるりと脱《ぬ》けて行ってしまった。
「いつかの朝、顔を瘤《こぶ》だらけにして帰って来たでしょう、あの時吉原で、袋叩《ふくろだた》きに逢ったんですって……言ってくれるなと言った
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