た。笹村の胸にも、それが感ぜられた。
 笹村は深山から聞いていた、お銀の以前のことなどを言い出した。
「それはあの方が、よく私たちのことを知らないからですわ。」お銀は口惜《くや》しそうに言った。
「今こそこうしてまごついちゃおりますけれど、田舎じゃ押しも押されもしねえ、これでも家柄はそんなに悪いもんでござんしねえに。」母親も傍へ来て弁解した。
「家柄が何だ。そんなことを今言ってるんじゃないんだ。」笹村は憎々しいような言い方をした。
「あなたから見れば、それはそうでもござんしょうが、田舎には親類もござんすで、娘がまたこんなことでまごつくようなことじゃ、私がまことに辛うござんすで……。」
 暴《あ》れたような不愉快な気分が、明朝《あくるあさ》も一日続いた。
 晩方K―が、ぶらりと入って来たころには、甥と一緒に、外を彷徨《ぶらつ》いて帰って来た笹村が、薄暗い部屋の壁に倚《よ》りかかって、ぼんやりしていた。茶の室《ま》では母親とお銀とが、声を潜《ひそ》めて時々何やらぼそぼそと話していた。
「おいおい、酒を持って来んか。」
 笹村はK―と話しているうちに、ふと奥の方へ声かけた。
「昨夜《ゆうべ》の今夜ですから、酒はお罷《よ》しなすった方がようござんすらに。」
 大分経ってから、母親がそこへ顔を出した。
「いいじゃないか。僕が飲むと言ったら。」笹村は吐き出すように言った。
 しばらくすると、出し渋っていた酒が、そこへ運ばれて、鰹節《かつぶし》を掻く音などが台所から聞えて来た。
「お銀に来て酌《しゃく》をしろって……。」
 笹村が言って笑うと、K―も顔を見合わせて無意味にニタリと笑った。
「おい酌をしろ。」笹村の声がまた突っ走る。
 夕化粧をして着物を着換えたお銀が、そこへ出て坐ると、おどおどしたような様子をして、銚子《ちょうし》を取りあげた。睡眠不足の顔に著しく窶《やつ》れが見えて、赭《あか》い目も弛《ゆる》み唇も乾いていた。K―はこだわりのない無邪気な顔をして、いつ飲んでもうまそうに続けて二、三杯飲んだ。
「お前行くところがなくなったら、今夜からKさんのところへ行ってるといい。」笹村はとげとげした口の利き方をした。
「うむそれがいい。己《おれ》が当分引き取ってやろう。今のところ双方のためにそれが一番よさそうだぜ。」
 K―は光のない丸い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、191−下−11]《みは》って二人の顔を見比べた。
 おどおどしたような目を伏せて、うつむいて黙っていたお銀は、銚子が一本あくと、すぐに起って茶の室《ま》の方へ出て行った。そしていくら呼んでもそれきり顔を見せなかった。
 何も彼も忘れるくらいに酔って、笹村は寝床の上にぐッたり横たわっていた。目を開いてみると、傍へ来て坐っている女の青白い顔が、薄暗いランプの灯影に寂しく見えた。
「……ほんとに済みませんでした。これから気をつけますから、どうか堪忍して下さい。」お銀の呟《つぶや》く声が、時々耳元に聞えた。
 笹村は冷たい濡れ手拭でどきどきする心臓を冷やしていた。

     十四

 四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車《くるま》に積んで持ち込んで来たのは、もう袷《あわせ》に羽織を着るころであった。町にはそっちこっちに、安普請の貸家が立ち並んで、俄仕立《にわかじた》ての蕎麦屋《そばや》や天麩羅屋《てんぷらや》なども出来ていた。
 お銀は萌黄《もえぎ》の大きな風呂敷包みを夜六畳の方へ持ち込むと、四ツ谷で聞いて来たといって、先に縁づいていた家の、その後の紛擾《ごたごた》などを話して蒼《あお》くなっていた。お銀が逃げて来てからも、始終跡を追っかけまわしていたそこの子息《むすこ》が、このごろ刀でとかく折合いの悪い継母を斬《き》りつけたとかいう話であった。
 その話には笹村も驚きの耳を聳《そばだ》てた。
「係り合いにでもなるといけないから、うっかりここへ来ちゃいけないなんてね、お蝶《ちょう》さんに私|逐《お》ん出されるようにして来たんですよ。」
「へえ。」と、笹村は呆《あき》れた目をして女の顔を眺めていた。
「私おっかないから、もう外へも出ないでおこう。この間暗い晩に菊坂で摺《す》れ違ったのは、たしかに栄ですよ。」
 傍で母親は、包みのなかから、お銀の不断着などを取り出して見ていた。外はざあざあ雨が降って、家のなかもじめじめしていた。
「私は顔色が大変悪いって、そうですか。」と、お銀は気にして訊《き》き出した。
 お銀はこの月へ入ってから、時々腹を抑《おさ》えて独りで考えているのであった。そして、
「私妊娠ですよ。」と笑いながら言っていたが、しばらくすると、またそれを打ち消して、
「冷え性ですから、私にはどうしたって子供の出来る気遣いはないんです。
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