―は、立ったまま首を傾《かし》げて二人の顔を見比べていた。

     十二

 K―は、郷里では名門の子息《むすこ》で、稚《おさな》い時分、笹村も学校帰りに、その広い邸へ遊びに行ったことなどが、朧《おぼろ》げに記憶に残っていた。その後久しくかけ離れていたが、ある夏熊本の高等中学から、郷里の高等中学へ戻って来たK―のでくでくした、貴公子風の姿を、学校の廊下に認めてから間もなく、笹村は学校を罷《や》めてしまった。偶然にここで一つ鍋《なべ》の飯を食うことになっても、双方話が合うというほどではなかった。
 笹村は友人思いの京都のT―から、自分ら二人のその後の動静を探るようにK―へ言ってよこしたので、それでK―が貸家監理かたがたここへ来ることになった……とそうも考えたが、K―自身は、そのことについて一言も言い出さなかった。
「どうだい、男の機嫌をとるのはなかなか骨が折れるだろう。」K―は、二人の中へ割り込むように火鉢の傍へ来て坐り込んだ。
 それでその話は腰を折られて、笹村も笑って、奥へ引っ込んで行った。
 夜笹村は、かんかんしたランプに向って、そのころ書き始めていた作物の一つに頭を集中しようとしていた。機械鍛冶の響きはもう罷んで、向うの酒屋でも店を閉めてしまった。この町のずッと奥の方に、近ごろ出来た石鹸《せっけん》工場の職工らしい酔漢《よっぱらい》が、呂律《ろれつ》の怪しい咽喉《のど》で、唄《うた》を謳《うた》って通った。空車を挽《ひ》いて帰る懈《だる》い音などもした。
 K―は、茶の室《ま》でお銀たちを相手に、ちびちびいつまでも酒を飲み続けていた。しんみりしたような話し声が時々聞えるかと思うと、お銀の笑い声などが漏《も》れて来た。甥は真中の六畳の隅の方で、もう深い眠りに沈んでいた。
 夜になると、はっきりして来る笹村の頭は、痛いほど興奮していた。筆を執るには、目がちかちかし過ぎるほど、神経が冴《さ》えていた。
「酒というものは陽気でようござんすね。」客商売の家にいたりしたことのあるお銀が、先刻《さっき》酒好きなK―に媚《こ》びるように言ったことなどが想い出された。
 そういうお銀は、笹村の客が帰ったあとで、麦酒《ビール》などの残りをコップに注《つ》いで時々飲んでいた。酒が顔へ出て来ると、締りのない膝を少し崩しかけて、猥《みだ》らなような充血した目をして人を見た。齲歯《むしば》の見える口元も弛《ゆる》んで、浮いた調子の駄洒落などを言って独りで笑いこけていた。お銀の体には、酒を飲むと気の浮いて来る父親の血が流れているらしかった。
「女の酒は厭味でいけない。」
 時々顔を顰《しか》める笹村も、飲むとどこか色ッぽくなる女を酔わすために、自分でわざと飲みはじめることもあった。
 外が鎮まると、奥の話し声が一層耳について来た。女が台所へ出て、酒の下物《さかな》を拵えている気勢《けはい》もした。
 厠《かわや》へ立つとき、笹村は苦笑しながらそこを通った。女はうつむいて、畳鰯《たたみいわし》を炙《あぶ》っていたが、白い顔には酒の気があるようにも見えなかった。
「K―さんにお自惚《のろけ》を聴かされているところなんですの。どうしてお安くないんですよ。」お銀は沈んだような調子で言った。
 痛い頭を萎《な》やそうとして、笹村は机を離れてふと外へ出て見た。そして裏の空地を彷徨《ぶらぶら》して、また明るい部屋へ戻って見た。K―はまだちびりちびり飲み続けていた。そのうちに女は裏の木戸を開けて、ざくざくした石炭殻の路次口から駒下駄《こまげた》の音をさせて外へ出て行った。向うの酒屋へ酒を買いに行くらしかった。
「おい、少し静かにしないか。」
 大分たってから、たまりかねたように、笹村が奥へ大声で叫んだ。
 茶の室《ま》はひっそりしてしまった。

     十三

「そんなにお耳に障《さわ》ったんですか。だってK―さんがせっかくお酒を召し食《あが》っていらっしゃるのに、厭な顔も出来ないもんですから。」
 心持のゆったりしたようなK―が、間もなく黙って帰って行ってから、お銀は何気なげに遠くの方で言った。後で気のついたことだが、ちびりちびり酒を飲みながら、自惚《のろけ》まじりのK―の話のうちには、女を友達から引き離そうとするような意味も含まれてあった。それが今の場合K―自身として、笹村を救う道だと考えていたらしかった。以前下宿をしていた家の軍人の未亡人だという女主《おんなあるじ》と出来合っていたK―は、ほかにも干繋《かんけい》の女が一人二人あった。その晩もK―は、子まで出来た間《なか》を別れてしまった女のことを虚実取り混ぜて話していた。同じような心の痛みのまだどこかに残っている女は、しみじみした淡い妬《ねた》みの絡《まつ》わりついたような心持でそれに聴き惚《ほ》れてい
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