せんよ。」
女は別れる前に、ある晩笹村と外で飲食いをした帰りに、暗い草原の小逕《こみち》を歩きながら言った。女は口に楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、両手で裾《すそ》をまくしあげていた。
「田舎へも、しばらくは居所を知らさないでおきましょうよ。」
笹村は叢《くさむら》のなかにしゃがんで、惘《あき》れたように女の様子を眺《なが》めていた。
「そんなに行き詰っているのかね。」
「だけど、もう何だか面倒くさいんですから……。」女は棄て鉢のような言い方をした。
二、三日|暴《あ》れていた笹村の頭も、その時はもう鎮《しず》まりかけていた。自分が女に向ってしていることを静かに考えて見ることも出来た。
十一
母親と顔を突き合わす前に、どうにか体の始末をしようとしていたお銀は、母親が帰って来ても、どうもならずにいた。出て行く支度までして、心細くなってまた考え直すこともあった。この新開町の入口の寺の迹《あと》だというところに、田舎の街道にでもありそうな松が、埃《ほこり》を被《かぶ》って立っていた。賑《にぎ》やかなところばかりにいたお銀は、夜その下を通るたびに、歩を迅《はや》める癖があったが、ある日暮れ方に、笹村に逐《お》い出されるようにして、そこまで来て彷徨《ぶらぶら》していたこともあった。しかしやはり帰って来ずにはいられなかった。
「失敗《しま》ったね。私|阿母《おっか》さんに来ないように一枚葉書を出しておけばよかった。」
母親が帰って来そうな朝、お銀は六畳の寝床の上に蚊帳をはずしかけたまま、ぐッたり坐り込んで思案していた。部屋の隅《すみ》には疲れたような蚊の鳴き声が聞えた。笹村もその傍に寝転んでいた。
帰って来た母親は、着替えもしずに、笹村の傍へ来て堅苦しく坐りながら挨拶をした。そして田舎の水に中《あ》てられて、病気をしたために、帰りの遅くなったいいわけなどをしながら、世のなかにただ一つの力であった一人の弟の死んで行った話などをした。
「親戚《しんせき》は田舎にたくさんござんすが、私の実家《さと》は、これでまア綺麗に死に絶えてしまったようなものだで……。」
笹村はくすぐったいような心持で、それに応答《うけこたえ》をしていた。そして母親の土産に持って来た果物の罐詰を開けて試みなどしていた。
二、三日お銀は、あまり笹村の側へ寄らないようにしていたが、いつまでもそれを続けるわけに行かなかった。
「言いましたよ私……。」
お銀はある時笑いながら笹村に話した。
「阿母さんの方でも大抵解ったんでしょう。」
笹村も待ち設けたことのような気もしたが、やはり今それを言ってしまって欲しくないようにもあった。
仕事の方は、忘れたようになっていた。笹村の頭は、甥が出直して来た時分、また蘇《よみがえ》ったようになって来た。甥はしばらくのまにめっきり大人びていた。肩揚げも卸《おろ》したり、背幅もついて来た。着いた日から、一緒に来た友達を二人も引っ張って来て、飯を食わしたり泊らせたりして田舎語《いなかことば》の高声でふざけあっていた。ちょいちょい外から訪ねて来る仲間も、その当分は多かった。
「何を言っているんだか、あの方たちの言うことはさっぱり解りませんよ。」と、お銀はその真似をして、転がって笑った。
「それにお米のまア入《い》ること。まるで御飯のない国から来た人のようなの。」
甥が日ののきに裏の井戸端で、ある日運動シャツなどを洗濯していた。その時分には、連中も落着き場所を見つけて、それぞれ散らばっていた。お銀は手拭を姉さん冠りにして、しばらく不精していた台所の棚《たな》のなかなぞを雑巾《ぞうきん》がけしていた。
「洗濯ぐらいしてやったらどうだ。」仕事に疲れたような笹村は、裏へ出て見るとお銀を詰問するように言った。
「え、だからしてあげますからって、そう言ったんですけれど。」お銀はそんなことぐらいというような顔をして笹村を見あげた。
食べ物などのことで、女のすることに表裏がありはしないかと、始終そんなことを気にしていた笹村は、その時もそれとなく厭味を言った。
「そうですかね。私そんなことはちッとも気がつきませんでした。」女は意外のように、そこへべッたり坐って額に手を当てて考え込んだ。
「そんなことをして、私何の得があるか考えてみて下さい。」お銀は息をはずませながら争った。母親もほどきものをしていた手を休めて、喙《くち》を容《い》れた。
そこへ甥と前後して、出京していた家主のK―が裏から入って来た。K―は、ほかの三軒が容易に塞《ふさ》がらないので、帰省して出て来ると、自分で尽頭《はずれ》の一軒を占めることにした。その日もお銀に冬物を行李から出させて、日に干させなどしていた。そして母親が、その世話をすることになっていた。
片耳遠いK
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