こんな物を持っているんです。」お銀は珠をひねくりながら、不思議そうに笑い出した。
「ただ安いから買っておかないかと、叔母さんから勧められたから……。」
「でも誰か、的《あて》がなくちゃ……おかしいわ。いくらに買ったのこれを……私|簪屋《かんざしや》で踏まして見るわ。」
 結婚するとなると、笹村はまたさまざまのことが考え出された。
「僕に世話すると言っていた人は一体どうなったんだ。」笹村は笑いながら言った。
「いい女ですがね。」お銀は窓の外を瞶《みつ》めながら薄笑いをしていた。
 暗くなると、二人は別々に家を出て行った。そして明るい店屋のある通りを避けて、裏を行き行きした。暗い雲の垂《た》れ下った雨催《あまもよ》いの宵《よい》であった。片側町の寂しい広場を歩いていると、歩行《あるき》べたのお銀は、蹌《よろ》けそうになっては、わざとらしい声を立てて笹村の手に掴《つか》まった。笹村の小さい冷たい手には、大きい女の手が生温かかった。
 寄席《よせ》の二階で、電気に照されている女の顔には、けばけばしいほど白粉《おしろい》が塗られてあった。唇《くちびる》には青く紅も光っていた。笹村の目には暗い影が閃《ひらめ》いた。
「そんな……。」女はうつむいて顔を赧《あか》くした。
 お銀の話でここへ磯谷とよく一緒に来たということが、笹村の目にも甘い追憶のように浮んだ。
「ちょッとああいったようなね、頚《くび》つきでしたの。」女は下の人込みの中から、形《なり》のいい五分刈り頭を見つけ出して、目をしおしおさせた。笹村もこそばゆいような体を前へ乗り出して見下した。

     十

 母親が果物の罐詰などを持って、田舎から帰って来てからも、お銀は始終笹村の部屋へばかり入り込んでいた。笹村は女が自分を愛しているとも思わなかったし、自分も女に愛情があるとも思い得なかったが、身の周《まわ》りの用事で女のしてくれることは、痒《かゆ》いところへ手の届くようであった。男の時々の心持は鋭敏に嗅《か》ぎつけることも出来た。気象もきびきびした方で、不断調子のよい時は、よく駄洒落《だじゃれ》などを言って人を笑わせた。緊《しま》りのない肉づきのいい体、輪廓《りんかく》の素直さと品位とを闕《か》いている、どこか崩れたような顔にも、心を惹《ひ》きつけられるようなところがあった。笹村の頭には、結婚するつもりで近ごろ先方の写真だけ見たことのある女や、以前大阪で知っていた女などのことが、時々思い出されていたが、不意にどこからか舞い込んで来たこうした種類の女と、爛《ただ》れ合ったような心持で暮していることを、さほど悔ゆべきこととも思わなかった。
「深山がいさえしなければ、僕だってお前をうっちゃっておくんだった。」笹村は時々そんなことを言った。磯谷と女との以前の関係も、笹村の心を唆《そそ》る幻影の一つであった。そしてその時の話が出るたびに、いろいろの新しい事実が附け加えられて行った。
「……それがお前の幾歳《いくつ》の時だね。」
「私が十八で、先が二十四……。」
「それから何年間になる。」
「何年間と言ったところで、一緒にいたのは、ほんの時々ですよ。それに私はそのころまだ何にも知らなかったんですから。」
 笹村はお銀がそのころ、四ツ谷の方の親類の家から持って来た写真の入った函《はこ》をひっくらかえして、そのうちからその男の撮影を見出そうとしたが、一枚もないらしかった。中にはお銀が十六、七の時分、伯母と一緒に写した写真などがあった。顎が括れて一癖ありそうな顔も体も不恰好《ぶかっこう》に肥っていた。笹村はそれを高く持ちあげて笑い出した。
 母親から帰京の報知《しらせ》の葉書が来た。その葉書は、父親の手蹟《しゅせき》であるらしかった。お銀はこれまであまり故郷のことを話さなかったが、父親に対してはあまりいい感情をもっていないようであった。
「私たちも、田舎へ来いって、よくそう言ってよこしますけれど、田舎へ行けば、いずれお百姓の家へ片づかなくちゃなりませんからね。いかに困ったって、私田舎こそ厭ですよ。そのくらいなら、どこへ行ったって、自分一人くらい何をしたって食べて行きますわ。」
 お銀は田舎へ流れ込んで行っている叔父の旧《もと》の情婦《いろおんな》のことを想い出しながら、どうかすると、檻《おり》へ入れられたような、ここの家から放たれて行きたいような心持もしていた。磯谷との間が破れて以来、お銀の心持は、ともすると頽《くず》れかかろうとしていた。笹村は荒《すさ》んだお銀の心持を、優しい愛情で慰めるような男ではなかった。お銀を妻とするについても、女をよい方へ導こうとか、自分の生涯《しょうがい》を慮《おも》うとかいうような心持は、大して持たなかった。
「私がここを出るにしても、あなたのことなど誰にも言やしま
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