すこともあった。
「うるさいな。」笹村はぷりぷりした。
「お前はまたどうして深山のところへなぞ行くんだ。」ときめつけると、お銀は笑って黙っていた。
それでなくとも、心持のよく激変する笹村は、ふっとお銀の気もつかずに言ったことが、癪《しゃく》に触って怒り出した。
「帰ってくれ。お前に用はない。」
女は上眼遣いに人の顔をじろじろ見ながら、低い腰窓の下に体を崩して、じッとしていた。そこへ腰かけている笹村は、膝で女を小突いた。
「あなた私を足蹴《あしげ》にしましたね。」お銀は険しいような目色をした。
そういう女の太《ふ》てたような言い草が、笹村の心をいよいよ荒立たしめた。女は顔の汗を拭きながら、台所へ立って行った。伯父が失敗してから愚かな母親と弱い弟を扶《たす》けて今日までやって来たお銀は、そんなことを自然に見覚えて来た。そうしなければ生きられないような場合も多かった。
静かな夏の真昼の空気に、機械鍛冶で廻す運転器の音が、苦しい眠りから覚めた笹村の頭に重く響いて来た。家のなかを見廻すと誰もいなかった。台所には、青い枝豆の束が、差し込んで来る日に炙《あぶ》られたまま、竈《かまど》の傍においてあった。風が裏手の広い笹原をざわざわと吹き渡っている。笹村は物を探るような目容《めつき》で、深山の家へ入っていった。
六畳の窓のところに坐っている深山はいつもの通り、大きい体をきちんと机の前に坐ってうつむいていた。お銀が一畳ばかり離れて、玄関の閾際《しきいぎわ》に、足を崩して坐っていた。意味を読もうとするような笹村の目が、ちろりと女の顔に落ちた。
「家を開けちゃ困るじゃないか。」笹村は独り語《ごと》のように言って、すぐに出て行った。お銀も間もなくそこを起《た》って来た。
「何も言ってやしませんわ。お鈴さんのことで話していたんですわ。」
お銀は深山が同情しているお鈴との一件のことで、自分が深山に悪く思われるのも厭であった。笹村はとにかく、お鈴を通して自分の以前のことを知っているはずの深山に、そう変な顔も出来ないというような心持もあった。機嫌《きげん》の取りにくい笹村の性質についても、深山の話に道理があるとも考えた。
「ほんとうにひどいことをしますよ。」
お銀は晩に通りまで散歩に行った時、伴《つれ》の妹に話しかけた。
「私の手紫色……。」お銀は誇大にそうも言った。帰りに家の前で、「遊びにお出でなさいな。もし兄さんがいなかったら。」と、妹が声かけて別れて行くのを、笹村は暗い窓口から聞いていた。
怜悧《れいり》な深山が、いつかお銀の相談相手になっているように思えた。
九
笹村との間隔《へだたり》が、だんだん遠くなってから深山は遠くへ越して行った。そのころは一時潤うていた深山の生活状態がまた寂しくなっていたので、家主のK―へやるべきものも一時そのまま残して行くことになった。後から笹村のところへ掛合いに来る商人も一人二人あった。
「お鈴さんから聞いてはいたけれど、随分めずらしい人ですね。」と、お銀が言っていたが、笹村も初めのように推奨する代りに、すべてを悪い方へ解釈したかった。深山に連絡している周囲が、女のことについて、いろいろに自分を批評し合っているその声が始終耳に蔽《お》っ被《かぶ》さっているようで、暗い影が頭に絡《まつ》わりついていた。
「あなたのやり方が拙《まず》いんですもの、深山さんと間《なか》たがいなどしなくたってよかったのに……。」と、女は笹村の一刻なのに飽き足りなかった。
「いっそいさぎよく結婚しようか。」
お銀は支度のことを、なにかと言い出した。笹村もノートに一々書きつけて、費用などの計算までして見た。
「叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清《こせい》の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。」
「東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。」
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担《かつ》ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡《な》くした自分の着物が惜しまれた。
「私横浜の叔母のところへ行けば、少しは相談に乗ってくれますよ。」お銀は燥《はしゃ》いだような調子で、披露《ひろう》のことなどをいろいろに考えていた。
笹村は、旅行中羽織など新調して、湯治場へ貽《おく》ってくれた大阪の嫂に土産《みやげ》にするつもりで、九州にいるその嫂の叔母から譲り受けて来て、そのまま鞄《かばん》の底に潜《ひそ》めて来た珊瑚珠《さんごじゅ》の入ったサックを、机の抽斗《ひきだし》から出してお銀にやった。
「どうしてあなたが
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