対する軽侮と冷笑よりほか、何の意味をも響きをも与えない時の来たのは、そんなに長い将来のことでもなかった。お銀がそれを言い出されても、何の痛みをも感じないと同じに、笹村の方でも男が真の意味において自分のマッチでないことや、女が自分に値しないことのだんだんはっきりして来るのが、心淋しかった。
「電車通りのところで、阿母さんが余所《よそ》の人と話していたよ。」
ある時歯の療治に行くお銀に連れられて行った正一は、ふと笹村の傍へ来てそう言って言い告げた。お銀は産をするたびに、歯を破《こわ》されていた。目も時々|霞《かす》むようなことがあった。二度目の産をしてからは、一層歯が衰えていた。
「大変な歯ですね。よく今まで我慢していましたね。」と医師《いしゃ》に言われてきまりがわるいくらいであった。
お銀は痛みでもすると、その時々に弄《いじ》ってもらったりしていたが、続いて通うこともできずにいた。
「今の若さで、そう歯が悪くなるというのはどういうものだろう。」
先の家にいるとき、雨のなかを井戸へ水を汲みに行って、坂で子供を負《おぶ》ったまま転んで、怪我《けが》で前歯を二本かいたほかは、歯を患《や》んだことのない老人《としより》に、そう言って笑われた。
「田舎の人と違いますよ。」
物を食べるころになると、子供も同じように齲歯《むしば》に悩まされた。笹村はそこにも、自分の体を年々侵しているらしい悪い血を見た。
「今度こそ、少し詰めて通ってもよござんすか。」お銀はそう言って、正一の手をひきながら医師へ通った。四月ごろの厭な陽気で、お銀はどうかすると、歯と一緒に堪えがたい頭の痛みを覚えた。そしてせっかく結んだ髪を、また釈《と》いたりなどして、氷で冷やしていた。
「どうしたんでしょう。私の脳はもう腐ってしまうんでしょうか。何ともいえない厭な痛み方なんですがね。それに、体も何だか輪がかかったようになって……。」
まだまだ先へ行けばよいこともある、そう思い思い苦しい世帯のなかを、意地を突ッ張って来たお銀も、体の衰えとともにもう三十に間もないことが、時々考えられた。
「己もいつまで働けるもんか。そのうちには葬られる。」
時々そう言って淋しく笑っている笹村の顔を見ると、何だか情ないような気のすることもたびたびあった。
「お前も先の知れた己などの家にいて苦労してるよりか、今のうちにどうかしたらいいだろう。工面のよい商人か、請負師とでも一緒になって、姐《あねえ》とか何とか言われて、陽気に日を送っていた方が、どのくらい気が利いてるか知れやしない。箱屋をしたって、立派に色男の一人ぐらい養って行けるぜ。その代り、子供は己が、お前の後日の力になるように仕立てておいてやる。そしてお前の入用な時いつでも渡してやる。子供がお前の言うことを聴くか、どうか、それは己にも解らんがね。」
笹村のそう言うたびに、お銀は聴かない振りをしていた。
子供が電車通りで逢ったという男のことを、笹村はちょいと考えがつかなかった。
「どんな人……。」と言って、知っている人の名を挙げてみたが、やっぱり解らなかった。
「その人がね、お父さんのことを言っていたよ。」
子供はうつむきながら言った。
その男が磯谷であったことが、じきお銀の話で知れた。
「まるで本郷座のようでしたよ。私ほんとうに悪かった。これから妹と思って何かのおりには力になるからなんて、そう言って……。」と、お銀はその時の様子を笑いながら話した。
七十六
夏の初めに、何や彼やこだわりの多い家から逃れ、ある静かな田舎の町の旅籠屋《はたごや》の一室に閉じ籠った時の笹村の心持は、以前友達から頼まれた仕事を持って、そこへ来た時とはまるで変っていた。
その町は、日光へも近く、塩原へもわずか五時間たらずで行けるような場所であったが、町それ自身には、旅客の足を留める何物もなかった。家を飛び出した時の笹村は、そこの退屈さを考えている遑《いとま》もないほど混乱しきっていた。それに適当な場所へ行くような用意ももとよりなかった。笹村は何かなし家と人から逃れて、そんなに東京からの旅客に慣らされていないような土地へ落ち着いて、静かに何かを考え窮めて見たかった。
その前から、笹村はどうかすると家を飛び出しそうにしては、お銀や老人《としより》に支えられてしまった。春から夏へかけての笹村の感情は、これまでにも例のないほど荒《すさ》んでいた。自分の健康や世帯の苦労と、持っていた家をまた畳まなければならなかった弟や、そこへ行っていた母親についての心配とで、毎日溜息ばかり吐《つ》いているようなお銀の顔を見るのも苦しかったが、そうした波動の始終自分の頭に響いて来るのも厭であった。何事も隠そうとしているお銀の調子は、二人を一層打ち釈《と》けることの
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