出来ないものにしてしまった。
 何ということなしに、笹村がちょいちょい通っていた女のことが、時々お銀の頭をいらいらさせた。体が悪いので、しばらく駿河台《するがだい》の方の下宿へ出ていたその女とは、年にも大変な懸隔《へだたり》があったし、集まって来る若い男も二、三人はあったが、土竜《もぐらもち》のような暗い生活をしている女の堕落的気分が、ただ時々の興味を惹《ひ》いていた。
 笹村は、家が重苦しくなって来ると、莨銭《たばこせん》を袂《たもと》の底にちゃらつかせながら、折にふれて行きどころのない足をそっちへ向けた。そしてその部屋の壁際に寝そべって、女からいろいろの話を聞いた。
 女の机のうえには薬瓶などがあった。女はしおしおしたような目をして、派手な牡丹《ぼたん》の置型のある浴衣《ゆかた》のうえに、矢絣《やがすり》の糸織りの書生羽織などを引っかけて、頽《くず》れた姿形《なりかたち》をして自分がそこへ陥ちて行った径路や、初恋などを話した。笹村は、頭が疲れて来ると、座蒲団のうえに丸くなって、毛布を被って、うとうとといい心持にまどろみかけていた。そして眠ったかと思うと、そこへ茶呑《ちゃの》み咄《ばなし》に来ている宿の内儀《かみ》さんと女との話し声が耳に入った。
 女のところへは、ほかにもそういう友達が一人二人遊びに来た。そのなかには、男に仕送りをされて、学校へ通っているような身のうえのものもあった。
 下宿には客が少かった。そして障子を閉めきって、そこに寝たり起きたりして、女の弁《しゃべ》ったりしたりすることを見ていると、暗いその部屋を起つのが億劫なほど、心も体も一種の慵《ものう》い安易に侵されるのであったが、やはりいらいらした何物かに苦しめられていた。
「坊ちゃんはお幾歳《いくつ》?」
 女は思い出したように、そんなことを訊いた。
「五つ。」笹村は自分を笑うように答えた。
 笹村はそこでまずい西洋料理などを取って食べた。
「この商売はそんなに悪い商売でしょうか。」女はそんなことを訊いた。
 笹村はそこに居たたまらなくなると、鳥打帽子に顔を隠して、やがて外へ出た。

     七十七

 そっちこっちへ手紙を出すのを仕事にしている女は、笹村のところへもどうかすると決り文句の手紙を男名で書いた。それがお銀の目にも触れた。それでなくとも、外から帰って来る笹村の顔から、その行き先を嗅ぎ出すくらいは、お銀にとってそんなむずかしいことでもなかった。そんな時のお銀の調子は、自分を恥じている笹村の心にとげとげしく触った。
「そんなものに関係なぞして、あなたは世間のいい笑いものになっていることを知らないんですか。深山さんでも誰でも、皆なそう言ってますよ。」
 お銀はムキになって、その女のことを口汚く罵《ののし》った。目の色も変っていた。
 二日ばかり、外をぶらついて帰って来た笹村は、お銀の神経をそんなに興奮させる何物もないのがおかしかったが、相手の心持に理解のないお銀の荒々しい物の言いぶりや仕草には、笑って済まされないようなことがあった。
 何事も投《ほう》り出して、ペンと紙だけポケットへ入れて、ある日の午後不意に笹村が家を出た時、お銀は何にも知らずにいた。それまで二人は幾度となくはしたなく言い争った。巣をかえてから、笹村の足の遠のいていた女のことは、もはやお銀の頭に何の煩いをも残さなかったが、そんなことでしばらく紛らされていた笹村の頭は、前よりも一層落着きを失っていた。そして年々煩わしさの増して行く生活につれていろいろに分裂している自分の心持を支えきれないような気がしていた。
 その日は雨がじめじめ降っていたが、汽車から眺める平野の青葉の影は、しばらく家を離れたことのない笹村の目に、すがすがしく映った。汽車は次第に東京の近郊から離れて、広い退屈な関東の野を走った。笹村の頭には今まで渦のなかにいるように思えた自分の家、家族の団欒《だんらん》、それらの影がだんだん薄くなって来た。そして今行こうとしている町の静けさと自由さが、沈澱《ちんでん》したような頭に少しずつはっきりして来た。どこへ旅しても、目は始終人や女の影を追うていた七、八年前の心持が、今と比べて考えられた。西の方へ長い漂浪《さすらい》の旅をした時は、ことにそうであった。家族と一緒に歩いている旅客を、船や汽車で見た時は、一層その念が強かった。その時の笹村の心には、どこへ行っても自然は気をいらいらさせる退屈な田舎の松並木に過ぎなかった。
 爽《さわや》かな初夏の雨は、汽車の窓にも軽く灑《そそ》いで来た。窓の前には、雨を十分吸い込んだ黒土の畑に、青い野菜の柔かい葉や茎を伸ばしているのが見えたり、色の鮮かな木立ち際に黝《くろず》んだ藁屋《わらや》が見えたりした。汽車のなかには、日光へ行くらしい西洋人の日に
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