は痩せ細った手を眺めながら、憤《じ》れったそうに呟いた。
「こんな物が来たんですよ。」
 お銀はある日の晩方に、鏡台の抽斗《ひきだし》から一枚の葉書を出して、笹村に見せた。その葉書は磯谷から、いつかの大工の女房になっているお針の女へ当てたものであったが、書中にお銀の今の居所が尋ねてあった。その意味では、お銀がとうとう笹村のところに落ち着いたことを知らないらしかった。
 笹村は拙《まず》いその手蹟や、署名のある一枚の葉書に、血のむず痒《がゆ》いようななつかしさを覚えた。
「へえ。じゃまたお前に逢おうとでも思っているんだね。」
「そんなことかも知れませんよ。あの男は、一旦別れた女を、一、二年経つとまた思い出して来るのが癖なんです。今は何かあるかないか解りませんけれど、一人決まった女と関係していると、ほかの女のことが、やっぱり気になると見えるんですね。そして先方《むこう》の忘れた時分に、ふっと逢いに行って謝罪《あやま》ったり何かするんです。妙な男ですよ。」
「面白いね。」
「やっぱり気が多いんでしょうね。」
「今はどこにいるね。」
「どこにいるんですか。むろん学校の方も失敗《しくじ》ってしまったんですから。」
「どこかで一度くらい逢っているだろう。」
「逢えば逢ったとそう言いますよ。」

     七十四

 笹村はどんな片端《きれっぱし》でもいい、むかし磯谷からお銀に当ててよこした手紙があったらばと、それを捜してみたこともあった。読んで胸をどきつかすようなあるものを、その中から発見するのが、何よりも興味がありそうに思えた。笹村は独りいる時に、よく香水や白粉の匂いのする鏡台、箪笥、針箱、袋の底などを捜してみるのが好きであった。それは子供のおり田舎の家の暗い押入れにある母親の黴《かび》くさい手箪笥や文庫のなかを捜すとちょうど同じような心持であった。けれど書き物と言っては、お銀の叔父が世盛りのときに、友達に貸した金の証書の束、その時分の小使い帳、幾冊かの帳簿、その他は笹村の名の記されたものばかりであった。証書の束のなかにはかなりな金額の記されたものもあった。お銀の覚えている人も、その中に一人二人はあるらしかった。
「尋ねて見ようかしら。」
 お銀が時々そんなことを言っているのを、笹村も聴いた。そして、そのたびに、「誰しも貸して取れないのがあれば、一方には借りて返さないのもあるのさ。」と笑っていた。
「それよりか磯谷の手紙くらい残っていそうなものだね。それをお見せ。」笹村はそう言って尋ねた。
「小石川の家にいる時分、みんな焼いてしまいましたわ。」
「へえ、惜しいことをしたねえ。」笹村は残念がった。
 またある時、学校出の友達の夫人から、ある女学生が相愛していた男をふとしたことから母親の目に触れてから、一人娘であったわが子のために、父親はその男を養子に取り決めることになった。けれど男の心は、そんなことがあってから、じきに他の女に移って行った――そんな話を聞いた笹村は、お銀にもそれを語った。
「手紙を背負《しょ》い揚《あ》げに入れておくなんて、そんなことがあるのか。」
「え、そうでしょう。私もそうでした。」お銀はその時の娘らしい心持を追想するような目をして、呟くように言った。その手紙を焼いたころのお銀は、まだ赤いものなどを体に着けていた。
「なぜそれを己に見せなかった。」笹村はその時もそれをくやしがった。
 笹村の側《がわ》に、そんなことのないのが、お銀にとって心淋しかったが、それでもそのころ温泉場《ゆば》にいたある女から来た手紙や、大阪で少《わか》い時分の笹村が、淡いプラトニック・ラヴに陥ちていた女の手紙は、そんなことを誇張したがるお銀のためには、得がたい材料であった。
 二人寄席に行っているとき、向う側の二階に友達と一緒に来ている磯谷の顔を、お銀はじきに見つけた。そして前に坐っている人の陰に体をすくめながら、時々肩越しにそっちを見ていた。
「あれ磯谷の友達だった人ですよ。」
 お銀はそう言って笹村に教えたが、その傍に磯谷のいたことは、笹村も帰ってからはじめて聞かされた。
「莫迦《ばか》にしているな。向うは己を気づいたろう。己こそいい面《つら》の皮だ。」
 笹村はなぜその周囲の顔を、一々記憶に留めなかったかをくやしがった。
「気がつくもんですか。私のいることすら知らなかったでしょう。それに私も、あの時分から見るとずッと変っていますもの。口でも利けば知らず途中でちょッと逢ったくらいじゃ、とても解りっこはありませんよ。」
「だけど、お前の目が始終|先方《むこう》を捜していると同じに、先方の目だってお前を見遁《みのが》すもんか。」
「そんなことは真実《ほんとう》にありませんよ。」

     七十五

 けれど笹村の口にする磯谷という名前が、妻に
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