に来る人も少くなった病室に、子供は配《あてが》われたウエーファを手に持ったまま、倦《う》み果てたような顔をして、ベッドに腰をかけていた。家から運んで来て庭向きの窓の枠《わく》に載せておいた草花も、しばらく忘れられて水に渇《かわ》いて萎《しお》れていた。
「それじゃ私はちょッと家まで行って来なくちゃ……。」お銀はその不意なのに驚いたようであった。
「家へ連れて帰ったら、かえってずんずん快《よ》くなるかも知れませんね。――さあ、それじゃ私行って来ましょう。」
 そう言ってお銀は髪など撫でつけながら、病気が恢復期へ向いたころに、笹村が買物のついでに、淡路町《あわじちょう》の方で求めて来た下駄をおろして、急いで出て行った。
 その間、笹村は子供を抱え出して、廊下をぶらぶらしていた。むずかしい病人がしきりに担ぎ込まれたり、死骸が運び出されたりした。ひところに比べると、そのころの病院の景気は何となく、だらけたものであった。死目になって張り詰めていた笹村の心にも、弛《ゆる》びと安易との淡い哀愁が漂っていた。廊下の突当りに、笹村の来ぬ前から痩せ細った十一、二の女の子を看護している婆さんだけが、今では笹村夫婦の一番古い馴染《なじ》みであった。その病人は里流れになった子であった。たまにパナマの帽子を冠った実の父親が訪《たず》ねて来ても子供は何の親しみも感じなかった。
「可哀そうなもんですね。」
 お銀は時々その部屋を見て来て、目を曇《うる》ませながら笹村に話した。
「家の坊やも、あなたの言うとおりに人にくれていたら、やっぱりあんなもんですよ。」お銀はそうも言っていた。
「母さんは……。」と言って、時々待ち遠しそうに顔を曇らしている正一を笹村は上草履のまま外へ抱え出した。
 町には薄暗い雲の影がさしていた。笹村はそこから電車通りへ出て、橋袂の広場を見せて歩いた。そうしているうちに、お銀が風呂敷包みなどを抱えて、車で駈けつけて来た。
 家では神棚に燈明が上げられたりした。神棚に飾ってある種々のお礼のなかには、髪結のお冬が、わざと成田まで行って受けて来てくれたものなどもあった。
 じきに催して来た子供の便には、まだ粘液が交っていた。
「やっぱりつれて来て悪かったでしょうかね。」
 お銀はお丸を覗き込んでいる笹村に呟いた。
 一時に疲れの出たお銀が、深い眠りに沈んでいる傍で、笹村は時々夜具をはねのける子供を番していた。蚊帳の外には、まだ蚊の啼き声がしていた。

     七十三

「何はおいても、お義理だけは早くしておきたいと思いますがね……。」と言うお銀に促されて、床揚げの配り物をすると一緒に、お冬へ返礼に芝居をおごったり、心配してくれた人たちを家へ呼んだりするころには、子供はまだ退院当時の状態を続けていたが、秋になってからは肥立ちも速《すみや》かであった。そしてその冬は、年が明けてから、ある日出先のお銀の弟の家で、急にジフテリアに罹《かか》って、危いところを注射で取り留めたほかは何事もなかった。
「この子は育てるのに骨が折れますよ。十一になるまで、摩利支天《まりしてん》さまのお弟子にしておくといいんだそうですよ。」
 お銀はお冬の知合いのある伺いやの爺さんから、そんなことを聞いて来たりした。
 しかしうっちゃっておいても育って行くように見えた、次の女の子が、いつもころころ独りで遊んでばかりいないことが、少しずつ解って来た。この子供は、不断は何のこともない大人の弄物《おもちゃ》であったが、どうかして意地をやかせると、襖《ふすま》にへばりついていて、一時間の余も片意地らしい声を立てて、心から泣きつづけることがあった。
「いやな子だな。豚の嘴《くちばし》のような鼻をして……此奴《こいつ》は意地が悪くなるよ。」
 笹村は小さい自我の発芽に触るような気がした。
「巳年《みどし》だから、私に似て執念ぶかいかも知れませんね。」
 そう言って子供を抱き締めているお銀は、不思議にこの子の顔の見直せるようになって来るのに、一層心を惹《ひ》かれていた。
「あなたは坊だけが可愛いようですね。私はどちらがどうということはありませんよ。」
 時々そんなことを口にする母親の情がだんだん大きい方の子供に冷《さ》めて行くのが笹村によく解った。
「そうさ、体質から気質まで、正一のことは己には一番よく解る。」
 そしてその交感の鋭いのが、笹村にとって脱れがたい苦痛の一つであった。
 その冬笹村のふと冒された風邪《かぜ》が、長く気管支に残った。熱がさめてからも、まだ咽喉《のど》にこびりついているような痰《たん》が取れなかった。時々|悪寒《おかん》もした。笹村は長いあいだ四畳半に閉じ籠って寝ていた。そして障子の隙間から来る風すらが、薄い皮膚に鋭く当った。
「とうとうこじらしてしまった。」笹村
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