を送っていた。子供の病気を気にして、我から良人が折れて出るのを待つように、眼前《めさき》を往ったり来たりしている妻の姿や声が、痛い毛根に触《さわ》られるほど、笹村の神経に触れた。
昨夜|麻布《あざぶ》の方に、近ごろ母子三人で家を持っている父親が、田舎から出て来たお銀の従兄《いとこ》と連れ立ってやって来た。その時|午前《ひるまえ》に連れられて行った正一も一緒に帰って来たが、いつにない電車に疲れて、伯父に抱かれて眠っていた。その前から悪くなっていた正一の胃腸は、ビールと一緒に客の前に出ていた葡萄《ぶどう》のために烈しく害《そこな》われた。蒸し暑いその一晩が明けるのも待ちきれずに、母親と一つ蚊帳《かや》に寝ていた子供は外へ這《は》い出して、めそめそした声で母親を呼んでいた。
「坊や厭になっちゃった。」
子供の体の常《ただ》でないことが、朝になってからようやくお銀にも解って来た。
「手がないし、弱ってしまうね。」
お銀は溜息を吐《つ》きながら、庭の涼しい木蔭を歩いたり、部屋へあがって翫具《おもちゃ》を当てがったりしていたが、子供は悦ばなかった。
「大変な熱ですよ。お医者さまへ行って来ましょうね。」
お銀は子供に話しかけながら、乳呑《ちの》み児《ご》の方を女中に託《あず》けて出て行った。
一時に四十二度まで熱の上った子供は、火のような体を小掻捲《こがいま》きにくるまれながら、集まって来た人々の膝のうえで一日|昏睡《こんすい》状態に陥ちていた。そして断え間なく黒い青い便が、便器で取られた。そのたびにヒイヒイ言って泣くのが、笹村の耳に響いた。
「今度という今度は、少し失敗《しくじ》りましたねって、そう言うんですよ。もし助けようと思うなら、入院させるよりほかないんですって。家ではどうしても手当てが行き届かないそうですから。」
お銀は医者から帰った時、笹村に話した。
「どっちにしても、熱を少し冷《さ》ましてからでないといけないんだそうですがね。高橋さんが後で来て、も一度見て下さるそうです。けれど……その時病院の方も、紹介してあげますからというお話なんです。」
午後になって、暑熱《あつさ》が加わって来ると、子供は一層弱って来た。そして烈しい息遣いをしながら、おりおり目を開いて渇《かわ》きを訴えた。目には人の顔を見判《みわ》ける力もなかった。
いらいらする笹村の頭には、入院ということが大きな仕事に打《ぶ》つかったように考えられていたが、夏以来渇ききっている世帯のなかからさしあたり相当の支度もしなければならぬことが、お銀にとっても一と苦労であった。
医者が様子を見に来た時には、熱が大分下っていた。子供はしきりに「氷……氷……。」などと甲立《かんだ》った弱々しい声で呼んでいた。
「だって子供にもメリンスの蒲団くらいは新しく拵えなければ……そうあなたのように今が今というわけにも行きませんわ。」
お銀はいよいよ入院と決まった時に、急《せ》き立つ笹村に言い出した。長いあいだ叔母を看護したことのあるお銀は、病院の派手な世界であることを知っていた。
「何もかもちぐはぐの物ばかりで、さアと言うと、まごつくんですもの。」
笹村は長くそこにいられなかった。そして紛擾《ごたごた》する病室を出ると、いきなり帽子を取って外へ出て行った。
六十八
その晩九時ごろに、子供が病院に担ぎ込まれるまでには、笹村も一度家へ帰って病院へ交渉に行ったりなどした。
「九時少し過ぎまでならいいそうだから、とにかく今夜のうちに担ぎ込もう。」
お銀はその時、母親と一緒に押入れから子供の着替えのようなものを出したり、身の周《まわ》りの入用なものを取り揃えたりしていた。茶の室《ま》の神棚や仏壇には、母親のつけた燈明が赤々と照って、そこにいろいろの人が集まっていた。
「どうか戻されるようなことがなければいいがね。」
「多分大丈夫だろう。まだそんなに手遅れているわけでもないんだから。」と言いながら、笹村は一足先へ出た。
「よくなって速く帰っておいでよ。」
老人《としより》にそう言われると、子供は車のうえで毛布に包《くる》まっていながら、
「おばアちゃんお宅《うち》に待っちしておいで……。」と言って出て行った。
そろそろと挽《ひ》かれる車が、待ち遠しがって病院の外まで出て見ている笹村の目に映った。
「坊や、解るかい。ほーらお父さん……。」などと、お銀は車のうえで、子供に話しかけながらやって来た。町はもう大分ふけて、風がしっとりしていた。
病室と入口の違った診察室は、大きな黒門の耳門《くぐり》を潜《くぐ》ってから、砂利を敷き詰めた門内をずっと奥まったところにあった。中へ入ったのは笹村とお銀とだけであった。
部屋が決められる間、衆《みんな》は子供を囲んで暗い廊下に
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