ないという話ですよ。」
 いつかお銀の話に、「顔はのッぺりした綺麗な男なんですがね、何だかいけ好かない奴なんです。」と言ったのには、いくらか色気がつけてあるように思えて来た。
 そこを出た時、笹村はかなり酔っているのに気がついた。出るとき、ちろちろした笹村の目に映ったのは、一度お銀の舅《しゅうと》であったらしい貧相な爺さんであった。
 汽車の窓に肱《ひじ》をかけて、暗い外を眺めている笹村の頭脳《あたま》には、そんな家を訪ねたことを悔ゆる念も動いていた。お銀に向って、いつも真剣になっていた自分を笑いたくもあった。
 汽車はおそろしい響きを立てて走った。
「お前の古巣を見て来た。」
 笹村は家へ帰ってお銀の顔を見ると、そう言ってやりたいような気もしたが、やはり何事もないような風をするよりほかなかった。いつかはそれが勃発《ぼっぱつ》するだろう、とそれが気遣わしくもあった。
 お銀はその時、茶の間で、針仕事をしている母親と一緒に、何のこともなしに子供に乳を呑ませながら、良人《おっと》を待っていた。
 笹村は、すぐに書斎の方へ引っ込んで行った。

     六十六

 一皮ずつ剥《へが》して行くように妻のお銀を理解することは、笹村にとって一種の惨酷な興味であると同時に、苦痛でもあった。深山に情人《いろ》と誤解された弟と一緒に、初めて笹村の家へ来た当時のお銀――その時の冴《さ》え冴《ざ》えした女の目の印象は、まだ笹村の頭脳《あたま》に沁《し》み込んでいたが、年々自分に触れたところだけのお銀で満足していられなくなって来たのが、侘《わび》しかった。期待したような何物をももっていない女の反面、どんな場合にも、そこにいくらかの虚飾《みえ》と隠し立てとを取り去ることのできぬ女の性格、それに突き当る機会の多くなったのも厭であったが、やはり女をそっと眺めておけないような場合がたびたびあった。
 次に引き移って行った家では、その夏子供が大患《おおわずら》いをした。
 前にいた家の近所に、お銀がふとその家を見つけて来て、そこへ多勢の手を仮りて荷物を運び込んで行ったのは、風や埃の立つ花時から、初夏の落着きのよい時候に移るころであった。手伝いに来たものの中には、去年田舎から初めて出て来たお銀の末の弟の中学生などもいた。その弟は一家の離散したころから預けられていた親類の家から、東京へ遊学させられることになっていた。
 竹のまだ青々した建仁寺垣の結《ゆ》い繞《めぐ》らされた庭の隅には、松や杜松《ひば》に交《まじ》って、斑《ぶち》入りの八重の椿《つばき》が落ちていて、山土のような地面に蒼苔《あおごけ》が生えていた。木口のよい建物も、小体《こてい》に落着きよく造られてあった。笹村は栂《つが》のつるつるした縁の板敷きへ出て、心持よさそうに庭を眺めなどしていた。そして額《がく》を吊ったり、本を並べているお銀や弟を手伝っていたが、書斎と勝手の近いのが、気にかかった。
「これじゃそっちの話し声が耳について、勉強も何も出来やしない。」笹村は机の前に坐りながら言った。
「勤め人の夫婦ものか何かには、持って来いの家だよ。自分一人で住まう気になっているから困る。」
「そうですね。これじゃ……。」と弟も首を傾《かし》げた。
「やッぱり気がつきませんでしたかね。でもあんまり気持のいい家だったもんですから。」
 お銀も気がさして来たが、やはり住み心はよかった。
 木蓮《もくれん》や石榴《ざくろ》の葉がじきに繁って、蒼い外の影が明るすぎた部屋の壁にも冷や冷やと差して来た。ここへ来てから、急に蘇《よみがえ》ったようなお銀は、どうかすると、何事も忘れて半日も、せいせいした顔をして拭き掃除をしているようなことがあった。笹村も庭へ出ては草花|弄《いじ》りなどをして暮した。やがて頭の懈《だる》い夏が来た。
 風呂桶が新たに湯殿へ持ち込まれたり、顔貌《かおかたち》の綺麗な若い女中が傭《やと》い入れられたりした。
「これはおかしい。」
 笹村はそのころから、顔色の勝《すぐ》れない正一の顔を眺めながら、時々気にしていた。次の女の子が、少しずつ愛嬌《あいきょう》づいて来るにつれて、上の子は母親に顧みられなくなった。気むずかしい子供は、時々女中や老人をてこずらせた。
「変な子になりましたね。これを直しておかなけア、大きくなって困りますよ。」
 お銀は呆《あき》れたような顔をして、いじいじした声で泣き出す正一を眺めていた。
「お前たちには、この子供の気質が解らないんだ。」
 笹村はそう言って、傍で気を焦立《いらだ》った。

     六十七

 ある朝お銀がむずかる正一を背《せなか》へ載せて縁側をぶらぶらしていると、笹村は机の前に坐って、苦い顔をして莨ばかり喫《ふか》していた。笹村はしばらく勝手の方とかけ離れた日
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