[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、265−下−20]した彼岸桜などを眺めていたが、するうちにいいつけたものが、女中の手で運ばれた。笹村の寒さに凍《かじか》んだ体には、少しばかり飲んだ酒がじきにまわった。そして刺身や椀のなかを突ッつきちらしたが、どれも咽喉《のど》へ通らなかった。笹村はまずい卵焼きで飯をすますと、間もなくそこを出て、また寒い田圃なかの道へ出て来た。そして何となくもの足りないような心持で、賑やかな前の町へ帰って来た。町ではもう豆腐屋の喇叭《らっぱ》の音などが聞えていた。
笹村はそのままそこを離れてしまうのがあっけなかった。そして少しでもお銀から聞いていた話に当てはまるような家が見つかったら、そこへ飛び込もうと考えた。
しばらくうろついた果てに、とうとう笹村の入って行った家は、そこらにある並《な》みの料理店と大した違いはなかった。それでも建物が比較的落着きのいいのと木や石のかなりに入っている庭の寂《さび》のあるのが、前に入った家よりかいくらか居心《いごころ》がよかった。東京風の女中の様子も、そんなにぞべぞべしてはいなかった。
「ここの家では何ができるんだね。」と、笹村は餉台《ちゃぶだい》の上におかれた板を取りあげながら、身装《みなり》のこざっぱりした二十四、五の女中に訊《たず》ねた。世帯くずしらしいその女中は、どこかに苦労人のようなところのある女であった。
「どうせこんなところですから、おいしいものは出来ませんけれど……さあ何がいいんでしょうね。」と、相手の柄を見て、自分で取り計らおうとするような風を見せた。
「なにかといっても種がありませんものですからね。それよりか鶏がいいじゃありませんか。お寒いから……。」
笹村は何も食べたくはなかった。ただこの女の口からこの家のことを探りたいばかりであった。
「ねえ、そうなさい。」
頭から爪先まで少しも厭味のないその女は、痩せた淋しい顔をして、なにかとこまこました話をしながら、鍋に脂肪《あぶら》を布《し》いたり、杯洗《はいせん》でコップを手際よく滌《すす》いだりした。
「ここの子息《むすこ》さんはどうしたい。まだ入牢《はい》っているのかい。」
笹村は行けもせぬビールを飲みながら、軽い調子でそんなことを訊き出した。
「え、まだ……。」
女は驚きもしなかった。そのころの家の馴染《なじ》みと思っているらしかった。
「その時分に来ていた嫁さんはどうしたんだね。」
笹村はお銀のことを言い出した。
六十五
けれど笹村は、その女からあまり立ち入った話を聴くことが出来なかった。お銀の暗面をどこどこまでも掘《ほ》じくり立てようとしているような自分の態度にも気がさして来たし、女も以前のことは詳しく知らなかった。笹村は時々深入りしようとしては、他の話に紛らした。
「え、何だかそんな話ですけれどもね。」という風に、女も応答《うけこたえ》をしていた。
「あすこに戸を締めているのが、二度目に来た嫁さんですよ。」
女はそこから斜《はす》かいに見える二階座敷の板戸を繰っている、一人の若い女を見あげて笹村に教えた。笹村は餉台の上へ伸びあがるようにしてそれを見たが、格別どうという女でもないらしかった。
「あの娘は家の親類から連れて来たんですけれど、辛抱するかどうだか解りませんよ。」女中はそうも言った。
笹村は女にコップを差しなどした。
「君は一、二度亭主を持ったことがあるだろう。」とか「どんな亭主がいい?」とか、そんな笑談口《じょうだんぐち》をききながら、肉を突ついていた。
部屋にはいつか灯が点《とも》されていた。土地の人らしい客が一組上って来たりした。
「そうですね、やっぱり親切な人がよござんすね、そうかといって、あまり鼻の下の長いのも厭ですわね、好いた人なら少しくらい打ったり叩《たた》かれたりしたってかまやしない。人前はそういう風を見せても、二人きりの時親切にしてくれるような男が私好きなの。」
「へえ、それじゃ己と同じだね。」笹村は笑った。
女はヒステレックな笑い方をした。
笹村はいつまでも、この部屋に浸《つか》っていたいような気がした。ことによると、ここはお銀が婚礼の晩に初めてこの家で寝た部屋ではないかというような感じもした。寝室の外の方にはほとんど夜あかし出入りの男たちが飲食いをして騒いでいたということや、初めてお銀の見た新夫が、その晩ぐでぐでに酔っていたということなどが、妙に笹村の頭をふらふらさせた。そしてビールが思いのほかに飲めるのであった。
「ここの子息《むすこ》というのを、君は知っているかい。」
笹村はまた訊き出した。
「いいえ、私の来たのは、ついこのごろなんですから。何だか大変に酒癖の悪い人だそうですよ。男ぶりもよくは
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