隠していたけれど……。」
笹村はそれを聞いて笑い出した。
六十三
人を二人まで締め殺して、死骸を床下に埋めておいたというその兇徒は、犯罪の迹《あと》を晦《くら》ますためにじきにその家を引き払った。その時移って来たのが、この家であった。笹村が移って来る以前にいたある翻訳家も、その当時警官や裁判官に入って来られて、床下の土も掘り返されなどした。――そんな事実が、お銀をして急にこの家を陰気くさく思わしめた。折合いの悪い継母を斬りつけたという自分の前の亭主のことが、それに繋がって始終お銀の頭に亡霊のようにこびり着いていた。新聞に出ていた兇徒の獰猛《どうもう》な面相も、目先を離れなかった。
お銀は蒼い顔をして、よく夜更《よなか》に床のうえに起きあがっていた。そしてランプの心を挑《か》き立てて、夜明けの来るのを待ち遠しがっていた。
「ねえ、早く引っ越しましょうよ。私寿命が縮むようですから。」
お銀は朝になると、暗い顔をして笹村に強請《せが》んだ。笹村もそれを拒むことができなかった。
笹村も、いつか通りがかりにちょっと立ち寄ったことのある、お銀の先に縁づいていた家のことが思い出された。その家は、笹村がお銀の口から聴いて、想像していたほど綺麗な家ではなかった。東京に若い妾などを囲って、界隈《かいわい》に幅を利かしているというそこの年老《としと》った主、東京に芸者をしていたことがあるとか言ったその後添いの婆さん、仲人の口に欺《だま》されて行ったお銀が、そこにいた四ヵ月のあいだのいろいろの葛藤《かっとう》、ステーションまで提灯を持って迎いに出ていた多勢の町の顔利きに取り捲かれて、お銀が乗り込んで行ったという婚礼の一と晩の騒ぎ、そこへのこのこある日お銀に会いに行った磯谷の姿を見て、お銀が泣いたという芝居じみた一場の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、264−下−19]話、そんなようなことが妙に笹村の好奇心をそそった。そうした客商売をしている家にいたころのお銀は、厭《いと》わしいような、美しいようないろいろの幻を、始終笹村の目に描かしめていた。
汽車から降りて、その辺の郊外を散歩していた笹村の足は、自然《ひとりで》に、その家の附近へ向いて行った。そしてそんなような家を、あれかこれかとそちこち覗《のぞ》いて行《ある》いた。
若いおりの古いお銀の匂いを、少しでも嗅ぎ出そうとしている笹村は、鋭い目をして、それからそれへとお銀の昔いた家を捜してあるいた。笹村の前には、葱青《あさぎ》、朽葉《くちば》、紺、白、いろいろの講中《こうちゅう》の旗の吊《つ》るされた休み茶屋、綺麗に掃除をした山がかりの庭の見えすく門のある料理屋などが幾軒となくあった。
そんな通りから離れると、さらに東京の場末にあるような、かなり小綺麗な通りが、どこまでも続いていた。駄荷馬や荷車が、白い埃の立つその町を通って行った。人力車も時々見かけた。町の文明の程度を思わしめるような、何かなしきらきらした床屋があったり、店の暗い反物屋があったりした。冬の薄い日光を浴びて、白い蔵が見えたり、羽目板の赭《あか》い学校の建物が見えたりした。
笹村の疲れた足は、引き返そう引き返そうと思いながら、いつかそのはずれまで行ってしまった。そこからはまだ寒さに顫《ふる》えている雑木林や森影のところどころに見える田圃面《たんぼづら》が灰色に拡がっていた。
その白けたような街道では、東京ものらしいインバネスの男や、淡色のコートを着た白足袋の女などに時々|出遭《であ》った。
笹村はその道をどこまでもたどって行った。
六十四
時々白い砂の捲き上る道の傍には、人の姿を見てお叩頭《じぎ》をしている物貰いなどが見えはじめて、お詣《まい》りをする人の姿がほかの道からもちらほら寄って来た。それがだんだん笹村を静かな町の入口へ導いて行った。
この町にも前に通って来た町と同じような休み茶屋や料理屋などがあったが、区域も狭く人気も稀薄《きはく》であった。不断でもかなりな参詣人《さんけいにん》を呼んでいるそこの寺は、ちょうど東京の下町から老人や女の散歩がてら出かけて行くのに適当したような場所であった。四十から五十代の女が、日和下駄《ひよりげた》をはいて手に袋をさげて、幾人となくその門を潜《くぐ》って行った。中には相場師のような男や、意気な姿の女なども目に立った。
勝手違いなところへ戸惑いをして来たような気がして、笹村がじきにその境内から脱けて出たころには、風が一層寒く、腹もすいていた。しばらくすると笹村は疲れた体を、ある料理屋の奥まった部屋の一つに構えていた。
笹村は近ごろの増築らしいその部屋の壁にかかった、正宗やサイダの広告、床の間の掛け物や、瓶に※
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