っとしたような顔をして、猪口に口をつけた。
「私こんなところを歩くのは幾年ぶりだか。たまに来てみると髪や何か、女の様子が山の手とまるで違っていますね。」
 お銀は長いあいだ異《ちが》った水に馴《な》らされて来た自分の姿を振り顧《かえ》られるようであった。いつも女らしく着飾ったこともなしに、笑ったり泣いたりしているうち、もう二人の子の母になった。四年の月日は、夢のように流れた。笹村と一緒にここで酒を飲んでいるのも、不思議なようであった。
「前に来た時分からみると、ここの家も随分汚くなりましたね。」お銀はちらちらするような目容《めつき》をした。
「磯谷とだろう。」
 笹村は笑いかけると、お銀も、
「いいえ。」といって笑った。
 そこを出てから、二人はぶらぶら須田町のあたりまで歩いた。産後から体が真実《ほんとう》でないお銀は、電車に乗るとじきに胸がむかついた。電車は暗い方から出て来て、明るい方へ入ったり出たりした。青い火花が空に散るたびに、お銀は頭脳がくらくらするほど、眩暈《めまい》がした。
「私どうしてこんなに意気地がなくなったんでしょう。」
 お銀はおかしそうに笑いながら、笹村の手に掴《つか》まってやっとレールを渡った。

     六十二

「あなたあなた……。」と、お銀は外から帰ると書斎へ入って行く笹村の後を追いながら声をかけた。
 出癖のついた笹村は、毎日あわただしいような心持を、どこへ落ち着けていいか解らなかった。ちょうど長火鉢のところから見える後庭の崖際にある桜の枝頭《えださき》が朝見るごとに白みかかって来る時分で、落着きのない自分の書斎を出ると、気紛《きまぐ》れな笹村の足はどこという的《あて》もなしにいろいろの方へ嚮《む》いて行った。それでもやはり机のあたりが気にかかって、出たかと思うと、じきに帰って来るようなことが多かった。
「ひょっとすると、私たちはこの家を立ち退かなければならないかも知れませんよ。」
 お銀は坐るまもなく、今日この家の買い主らしい隠居をつれて、家主の番頭の来たことを話し出した。
「へえ、そうかね。」と言って、莨をふかしている笹村の頭には、まだ世帯持ちらしい何物も揃っていないが、何や彼や複雑になって来た家を移すということの億劫《おっくう》さが思われた。引っ越すには纏《まと》まった金を拵えなければならなかった。
「けど立ち退くにしても、いずれ今日明日ということでもないでしょうからね。」
 お銀は笹村に安易を与えるような調子で言った。
 見すぼらしい道具を引き纏めて小石川の方に見つけた、かなり手広な家へ引き移ったのは、それから間もないことであった。それまでに、お銀も一度笹村について、その家を見に行った。そして空《あ》き店《だな》を番している老人に逢って、いろいろの話を取り決めた。
「あんたまだ若い。お子供衆が二人もあるとは思えませんぜ。」
 家主は毛糸の衿捲《えりま》きを取って、夫婦に茶を侑《すす》めなどした。
 笹村は何よりも、茶の間の方と、書斎や客間の方の隔りのあるのが気に入った。茶の間の方には、茶室めいた造りの小室《こま》さえ附いていた。庭には枝ぶりのよい梅や棕櫚《しゅろ》などがあった。小さい燈籠《とうろう》も据えてあった。
 そこへ落ち着いて、広い座敷に寝た笹村は旅にいるような心持がした。
 笹村が前の家から持って来た萩《はぎ》の根などを土に埋《い》けていると、お銀は外へ長火鉢などを見に出て行った。古い方は引っ越すとき屑屋《くずや》の手に渡ってしまった。
「いくら何でも、こんなものはきまりがわるくて持ち出せやしませんわ。」
 お銀は落しのおちたその古火鉢を眺めながら、何もかまわない笹村に不足を言った。それでも手放すには、あまりいい気持はしなかった。拭くのも張合いのないその抽斗《ひきだし》の底には、どうなるか解らなかった母子の身の上を幾度となく占《うらな》った古い御籤《みくじ》などが、いまだに収《しま》ってあった。
 笹村は座敷の方に坐っているかと思うと、また落着きもなく勝手の方へ来て、少し高くなった四畳半の小室の方へやって来て、丸窓の下に寝転んだり、飛び石の多い庭へ下り立って見たりした。日によって庭にはどうかすると、砲兵工廠から来る煙が漲《みなぎ》り込んで、石炭|滓《かす》が寒い風に吹き寄せられて縁の板敷きに舞っていた。そんな日にはきっと空が曇って、棕櫚や竹の葉がざわざわと騒がしかった。笹村の頭も重苦しかった。
「これじゃしようがない。」
 お銀は時々障子を開けて見ながら呟いた。
「それにこの家の厠《はばかり》の位置が、私何だか気に喰いませんよ。」
 人殺しをしたある兇徒《きょうと》の妾《めかけ》が、ここにいたことがあるという話が、近所の人の口から、お銀の耳へじきに入った。
「そうさ、お前には
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