どもあった。女は打たれるよりか、物を壊されるのが惜しかった。笹村の気色が嶮《けわ》しくなって来たと見ると、箪笥《たんす》や鏡台などを警戒して、始終体でそれを防ぐようにした。
 笹村は、弱い心臓をどきどきさせながら、母親の手に支えられて、やっと下に坐った。下駄や帽子を隠された笹村は、外へ飛び出すことすら出来ずにいた。
 二人は、時の力で、笹村の神経の萎《な》えて行くのを待つよりほかなかった。
 二、三日外をぶらついているうちに、今まで見せつけられていた他《ほか》のお銀が、また目に映りはじめて来た。
「私今度という今度こそは逐い出されるかと思った。」
 お銀は仔羊《こひつじ》のように柔順《おとな》しくなって来た。笹村の顔色を見ると、じきにその懐へ飛び込んで来るような狎《な》れ狎《な》れしさを見せて来た。
「けれど、お前も随分ひどいからな。」笹村はにやにやしていた。
「だって、あまり無理を言うから、私も棄腐《すてくさ》れを言ってやった。」
 お銀はそう言って、夜更けに卵の半熟などを拵えながら、火鉢の縁に頬杖《ほおづえ》をついて、にやりと笑った。
「あなたの言うことは、それは私にだって解らないことはないの。だけど、その時は何だか頭がかアっとなって、しかたがないんですの。やはり教育がないせいですね。」
 二人はランプを明るくして、いつまでも話に耽った。お銀が初めて笹村のところへ来た時のことなどが、また二人の頭に浮んで来た。正一をおろすとか、よそへくれるとか言って、毎日心を苦しめていたことが言い出されると、傍に寝ている子供の無心な顔を眺めているお銀の目には、涙が浮んだ。
「そう思って見るせいか、この子は何だか哀れっぽい子ですね。」
 笹村も侘《わび》しそうにその顔を見入った。親子四人こうして繋がっている縁が、不思議でもあり、悲しくもあった。
「この子は夭折《わかじに》するか知れませんよ。私何だかそんな気がする。」
「そうかも知れん。」笹村は呟いた。
「一体あの時、お前というものが、己《おれ》のところへ飛び込んで来なければ、こんなことにはならなかったんだ。」
「……厭なもんですね。」
「けど今からでも遅くない。お互いに、こうしていちゃ苦しくてしようがない。」
 二人はじっと向い合ってばかりいられなくなった。

     六十一

 笹村の姿が、また古い長火鉢の傍へ現われた。お銀は笹村が朝飯をすましてから、新聞や捲莨《まきたばこ》などを当てがっておいて、長いあいだの埃《ほこり》の溜った書斎の方へ箒《ほうき》を入れた。そしてだらしなく取り乱《ち》らかされたものを整理したり、手紙を選《え》り分けたりした。赭《あか》ちゃけた畳に沁み込むような朝日が窓から差し込んで、鬢《びん》の毛にかかる埃が目に見えるほど、冬の空気が澄んでいた。
 笹村は落ち着いて新聞すら見ていられなかった。投《ほう》り出されてあった仕事も気にかかって来たし、打ち釈《と》けるとじきに相談相手にされる生活のことなども、頭に絡《まつ》わっていた。仕事にかかる前に、どこかで一日気軽に遊びたいような気もしていた。
「今日はどこかへ行こうかな。」
 笹村は変った柄の手拭を姉さん冠《かぶ》りにして、床の間を片着けているお銀の後姿を入口から眺めながら呟いた。お銀は亡くなった叔父が道楽をしていた時分に、方々で貰った手拭を幾十本となく箪笥に持っていた。
「行ってらっしゃいよ。」
 お銀はばたばたと本にハタキをかけながら言った。
「私も行きたいけれど……あなたどこへいらっしゃるの。私何かおいしいものを食べたい。天麩羅《てんぷら》か何か。――ねえ、坊だけつれて行きましょうか。」
 お銀はにっこりした顔をあげた。
「私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね。」
「何なら出てもいい。」
 笹村は縁側の方へ出て、澄みきった空を眺めていた。
「中清《なかせい》で三人で食べたら、どのくらいかかるでしょう。私もしばらく食べて見ないけれど……。」と考えていたが、じきに気が差して来た。
「ああ惜しい惜しい。――それよりか、もうじき坊のお祝いが来るんですからね。七五三の……。子供にはすることだけはしてやらないと罪ですから。」お銀は屈託そうに言い出した。
 そんな見積りをしていたことは、大分前から笹村も知っていた。
「間に合わないと大変ですから、私今日にもお鳥目《あし》を拵えて、註文《ちゅうもん》だけしておいてよござんすか。」
 笹村は仲たがいしていた間のことが、一時に被《かぶ》さって来たようであったが、これをはっきりやめさすことも出来なかった。
 笹村と一緒に下町へ買物に出かけたお銀は、途中で手軽な料理屋を見つけてそこで夕飯を食べた。
「たまには外へ出るのもよござんすね。」といって、お銀はほ
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