た。
五十九
お銀はそんな時、傍へ行っていいか悪いか解らなかった。半日外へ出ていた間に、深山とどこで何を話して来たか、それも不安であった。深山の口から、何か自分を苛《いじ》めるよな材料《たね》でも揚げて来たかのように、帰るとすぐ殺気立った調子で呼びつけられたのが厭でならなかった。あの当時、双方妙な工合で仲たがいをした深山の胸に、自分がどういう風に思われているかということは、お銀にも解っていた。自分と笹村との偶然の縁も、元はといえば深山の義理の叔父から繋《つな》がれたのだということも、何かにつけて考え出さずにはいられなかった。
この夏はじめて、深山と笹村とが二年ぶりでまた往来することになった時、古い傷にでも触《さわ》られるように、お銀があまりいい顔をしなかったということは、笹村をして、そのころの事情について、さらに新しい疑惑を喚《よ》び起させる種であった。
「けど僕と深山とは、十年来の関係なんだからね。」
笹村は自分の心持をその時お銀に話した。
「あの時、単に女一人のために深山を絶交したように思われているのも厭だし、相変らずの深山の家の様子を見れば、何だか気の毒のような気もするし……。」
お銀や子供のこと以来、いろいろの苦労に漉《こ》されて来た笹村は、そうは口へ出さなかったが、衷心から友を理解したような心持もしていた。
深山はそのころ、そっちこっち引っ越した果て、ずっと奥まったある人の別荘の地内にある貸家の一軒に住まっていた。笹村は時々深い木立ちのなかにあるその家の窓先に坐り込んで、深山が剥《む》いて出す柿などを食べながら、昔を憶い出すような話に耽《ふけ》った。庭先には山茶花《さざんか》などが咲いて、晴れた秋の空に鵙《もず》の啼《な》き声が聞えた。深山はそこで人間離れしたような生活を続けていたが、心は始終世間の方へ向いていた。
笹村はたまには子供を連れ出して行くこともあった。深山の妹たちにそやされながら、子供は縮緬《ちりめん》の袖なしなどを着て、広い庭を心持よさそうに跳《は》ね廻っていた。
深山もそうして遊んでいる子供には、深い興味を持つらしかった。
「おいおいこちらへ抱いておいで……危い。」などと、家のなかから妹たちに声かけた。
この子供が、笹村に似ているということは、深山には一つの奇蹟《きせき》を見せられるようであった……と、笹村は初めて来たとき、玄関へ出て来た子供を見たおりの深山の顔から、そんな意味も読めば読めぬことはないような気がしていた。
「深山は正一を、磯谷の子だと思ってでもいたんだろう。」
笹村はその時も、お銀に話したが、お銀にはその意味が、適切に通じないらしかった。
お銀が蒼い顔をして、笹村の部屋の外へ来て、心寂しそうに衿《えり》を掻き合わせながら坐ったのは、大分経ってからであった。
「……あなたにもお気の毒ですから、方法さえつけば、私だってどうしても置いて頂かなければならないというわけでもないのでございます。だけど、さアといって、今が今出るということにもならないものですから……。」
お銀はいつもの揶揄面《からかいづら》とまるで違ったような調子で、時々|応答《うけこたえ》をするのであったが、今の場合双方にその方法のつけ方のないことは、よく解っていた。
「とにかく僕はお前を解放しようと思う。今までにそうならなければならなかったのだ。」
「ですから、あなたも深山さんとよく御相談なすったらいいでしょう。」
お銀はそうも言った。
六十
笹村の興奮した神経は、どこまで狂って行くか解らなかった。どうすることも出来ないほど血の荒立って行く自分を、別にまた静かに見つめている「自分」が頭の底にあったが、それはただ見つめて恐れ戦《おのの》いているばかりであった。口からは毒々しい語《ことば》がしきりに放たれ、弛《ゆる》みを見せまいとしている女のちょっとした冷語にも、体中の肉が跳《と》びあがるほど慄《ふる》えるのが、自分ながら恐ろしくも浅ましくもあった。そんな荒い血が、自分にも流れているのが、不思議なくらいであった。
「とてもあなたには敵《かな》いません。」
そう言って淋しく笑う女も、傷《て》を負った獣のように蒼白い顔をして、笹村の前に慄えていた。骨張った男の手に打たれた女の頭髪《かみ》は、根ががっくりと崩れていた。爛《ただ》れたような目にも涙が流れていた。女はそれでも逃げようとはしなかった。
「ほんとに妙な気象だ。私が言わなくたって、人がみんなそう言っていますもの。」
女はがくがくする頭髪を、痛そうに振り動かしながら、手で抑《おさ》えていた。
笹村が、ふいに手を女の頭へあげるようなことは、これまでにもちょいちょいあった。寝ている女の櫛《くし》をそっと抜いて、二つに折ったことな
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