銀が用心深く鎖《とざ》した戸を推し開けて、そっと外へ逃げ出すかするよりほかなかった。
 明くる朝も笹村は早く目がさめた。舌にいらいらする昨夕《ゆうべ》の酒に、顔の皮膚がまだ厚ぽったく熱《ほて》っていて、縁側に差し込む朝日が目に沁《し》みるようであった。
 庭をぶらついている笹村の目に入ったお銀の蒼い顔にも、疲労の色が見えた。お銀は茶の間の縁先に子供を抱いてぼんやり坐っていた。
 その日は朝飯をすますと、お銀は子供を負って、めずらしく外へ出た。
「くさくさするからどこかへ行って遊んで来ましょうね。」
 そう言って出て行くお銀の調子には、いつにない落着きと、しおらしさとがあった。
 午後の三時ごろに、お銀がよく往来している友達と一緒に帰って来た時、笹村は襖《ふすま》を閉めきって自分の部屋に寝ていた。

     五十八

「……私もいつ逐《お》ん出されるか知れないから、ひょっとしたらあすこを出てしまおうかとも思うんですがね。」
 お銀は芝の方に家を持っているその友達を訪ねて、そんな話をしはじめた。
 商売人《くろうと》あがりのその友達は、お銀がもと金助町にいたころ、親しく近所|交際《づきあい》をしたことのある女であったが、このごろやり出したその良人はかなり派手な生活をしていた。女は来るたびに、時々の流行におくれないような身装《みなり》をしていた。
「須田さんでは、きっとこのごろ景気がいいんですよ。」
 笹村はお銀の口から、これまでにもおりおりそんなことを聞かされたが、そう言うお銀にはお銀自身の矜恃《プライド》がないこともなかった。
「私だっていつ出されるか知れやしないわ。」
 須田の細君もお附合いに同じようなことを言って笑っていたが、そんな不安はやはり時々あった。
 お銀は自分のこのごろの苦しいことを友達に話した。須田の細君も、笹村をおとなしいとばかりも言えないと思った。
「でも男というものは、皆なそんなもんですよ。」細君は自分などから見ると、まだ真面目に家ということを考えていないらしいお銀を慰めた。
「それに子供があるんだもの、どんな苦しいことがあったって、出ようなんて思うのは間違いですよ。」細君はそうも言って戒めた。
 二人は日比谷公園などを、ぶらぶら歩いて、それからお銀の家の方へやって来た。どこか寂しいところのあるこの細君が来ると、笹村も仲間入りをして、いつも一緒に花などを引いて遊ぶことになっていたが、その日は顔を出さずにしまった。そして茶の室《ま》で二人の話したり笑ったりしている声が、一層寝起きの笹村の頭をいらいらさせた。
 大分たってから、笹村はちょうど訪ねて来た深山と一緒に、どこという的《あて》もなしに町をぶらついていた。町にはどんよりした薄日がさして、そよりともしない空気に、羅宇屋《らうや》の汽笛などが懈《だる》げに聞え、人の顔が一様に黄ばんで見えた。
「どこへ行こうかな。」
「三崎町へ行って一幕見でもしようか。」
 二人はそんなことを呟きながら、富坂の傍にある原ッぱのなかへ出て来た。空には蜻蛉《とんぼ》などが飛んで、足下《あしもと》の叢《くさむら》に虫の声が聞えた。二人は小高い丘のうえに上って、静かな空へ拡がって行く砲兵工廠《ほうへいこうしょう》の煙突の煙などをしばらく眺めていた。
 笹村の苦しい頭には、何の拘束もなしに、おりおりこうして二人一緒にそこら中を歩いた時の記憶が閃《ひらめ》いていた。笹村はよく劇場や食物屋のような賑やかな場所へ二人で入って行って、自分の寂しさを忘れようとした。今の苦しさもその時の寂しさと変りはなかった。
 しゃがんで莨《たばこ》をふかしながら、笹村は自分と妻の性格の矛盾などを語り出した。深山はそれを軽く受け流していた。
「多少の犠牲を払うことぐらいはしかたがないとしておかなけア……君の心持で細君を教養するよりほかないだろう。世間には、細君を同化して行く例がいくらもあるんだからね。」
 笹村にはそんな器用な真似の出来ないことは、そういう深山にも解っていた。
「あの当時もそういうことはF―なども言っていたさ。」深山は言い足した。「君はとてもあの女を制御し得まいってことをね……。」
 F―というのは、そのころ二人の間を往来していた文学志望の一青年であった。笹村はその当時の傍観者の一部の風評が、それで想像できるような気がした。
 一ト幕ばかり芝居の立ち見をして、家へ帰った時には、笹村の頭は前よりも一層|攪《か》き乱されたような状態にあった。
「おいおい。」
 笹村は薄暗い部屋のなかへ入って行くと、いきなり奥へ声をかけた。奥からは子供がひょこひょこ出て来たが、父親のむずかしげな顔色を気取ると、じきに顔を赧《あか》らめて出て行った。
 笹村はお銀を呼びつけて、また同じような別れ談《ばなし》を繰り返し
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