らく話し込んで行った。
「ぜひ遊びにいらっしゃい。笹村君が何か言えば、私がうまく言っておきますから……。」と、気軽にそんな愛想を言って行ったことなどを、お銀は後で笹村に話した。
「あの方なぞのお宅もさぞ立派でしょうね。――どんな風だか、後学のためによその家も私見ておきたい。」
お銀は笹村の説明を聞いて、何にもない自分の家の部屋を気にしだした。
海辺へ出て行くときの笹村の頭はくさくさしていた。じめじめした秋の雨が長く続いて、崖際《がけぎわ》の茶の室《ま》や、玄関わきの長四畳のべとべとする畳触りが、いかにも辛気《しんき》くさかった。そんな雨を潜《くぐ》りながら赤子を負って裏木戸から崖下の総井戸へ水を汲みに出て行った母親が、坂のところで躓《つまず》いて転んで、前歯が二本ぶらぶらになってから、ここの家の住みにくいことが、また母子《おやこ》の口から繰り返されなどした。
飯を食うたびに、その歯を気にしている母親の顔を、お銀はいたましそうに眺めていた。笹村には、それが何か大きな犠牲でも払ったかのように思わせようとしているらしくも見えた。
「だから老人《としより》には無理ですよ。壮ちゃんに汲んでもらえばいいんだけれど、やはりそうも行かないし……。」お銀は笹村に当てこするような調子で言った。
家を畳んで、そのころ渋谷《しぶや》の方のある華族の邸に住み込んでいた父親が、時々|羽織袴《はおりはかま》のままでここへ立ち寄ると、珍らしい菓子などを袂《たもと》から出して正一にくれなどした。
「御隠居が、こんな物をくれたで……。」と、綺麗な巾着《きんちゃく》を、紙に包んだまま娘の前に出すこともあった。
「工合はいかがです。」と、笹村はたまに愛想らしい口を利いた。いろいろの才覚のあるこの老人が、だんだん奥向きのことに係《たずさ》わるようになっていることは、笹村にも頷《うなず》かれたが、そこの窮屈な家風に、ようやく厭気《いやき》のさしていることも、時々の口吻《くちぶり》で想像することが出来た。
「何分|私《わし》も年を取っているもんだで……。」
この五、六年田舎で懶惰《らんだ》に日を暮した父親は、ほかに何か気苦労のない仕事があるならばと、もうそれを考えているらしくも見えた。
笹村は、そんな内輪の事情を、そのころまた旧《もと》の友情の恢復されていた深山にだけ時々打明け話をしたが、やはり独りでもだもだと頭を悩ましていることが多かった。そうして気が結ぼれていると、苦しい頭が狂い出しそうになった。
五十七
そんな周囲の事情は、お銀のちょっとした燥《はしゃ》いだ口の利き方や、焦《いら》だちやすい動物をおひゃらかして悦《よろこ》んでいるような気軽な態度を見せられるたんびに、笹村をして妻を太々しい女のように思わしめた。そして圧《お》し潰されたような厭な気分で、飯を食いに出るほかは、狭い檻《おり》のような自分の書斎のなかに、黙って閉じ籠ってばかりいた。笹村の臆病な冷たい目は、これまでに触れて来た女の非点《あら》ばかりを捜して行った。
朝の食膳に向っている時、そうして張り合っている不快な顔の筋肉が、ふとくすぐられるような弛《ゆる》びを覚えて、双方で噴飯《ふきだ》してしまうようなことはこれまでにめずらしくなかったが、このごろの笹村の嫌厭《けんえん》の情は妻のそうした愛嬌《チャーム》を打ち消すに十分であった。
笹村の目には、これまでにない醜い女が映って来た。そしてそれを見つめている苦しさに堪えられなかったが、お銀の頭にも、夫婦間に迫っている危機が感ぜられた。そして時々自分の前途を考えないわけに行かなかった。
茶の室《ま》で、怯《おび》えたようなお銀が蔭でそっと差図して拵えさした膳に向って、母親の給仕で飯を食うのが苦しくなって来ると、笹村はそれを書斎の方へ運ばした。そして独りで寂しい安易な晩飯を取った。夜も冷や冷やする寝床のなかで、やっとうとうとしかけた眼がふと覚めると、痛いほど疲れた頭が興奮して来た。笹村はランプの心を挑《か》き立てて、時々蒲団のうえに起き直った。そして本など拡げて、重苦しい頭を慰《いや》そうとあせるのであったが、性のよくない目は、刺すような光に堪えられないほど涙がにじみ出して来た。呼吸《いき》も苦しかった。
笹村は、よく夜更《よなか》に寂しい下宿の部屋から逃れて、深い眠りに沈んでいる町から町を彷徨《さまよ》い、静かな夜にのみ蘇生《よみがえ》っている、深山の書斎の窓明りを慕うて行ったころのことを思い出していた。そして、しらしらした夜明け方に、語りくたびれて森や池の畔《はた》を歩いていた二人の姿を考えた。
笹村は、触る指頭《ゆびさき》にべっとりする額の脂汗《あぶらあせ》を拭いながら、部屋を出て台所へ酒や食べ物を捜しにでも行くか、お
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