うそんな病気になったんですかね。」
 平常《ふだん》のように赤子を抱いたり、台所働きをしているお銀の姿は、笹村の目にもいたましげに見えた。
「どれ、ちょッとお見せ。」と、笹村は気遣わしそうに胸を出さして見た。肋骨《ろっこつ》のぎこぎこした胸は看《み》るから弱そうであった。
「何て厭な体でしょう。骨ばかり太くて……。」
 お銀は淋しそうに自分の首や胸に触《さわ》って見た。そして肌をいれながら、
「私死んでもいい。子供さえなければ……。」
「何大丈夫だよ。きッと癒してやる。」
 笹村は心丈夫そうに笑って見せた。
「して見ると、あなたの方が丈夫なんですかね。」
「けれど、女の方はお産があるから……。」
 お銀は一ト月ばかり牛乳と薬を服《の》み続けていたが、腎臓の方が快くなると、じきに飽いて来た。
 涼気の立つころには、痩せていた子供も丸々肉づいて来るくらい、乳もたッぷりして来たが、時とするとお銀はやはりかかりつけの医者へ通った。
「あなたにちょいと来て下さいって、高橋さんがそう言いましたよ。」
 お銀はある日医者から帰ると、笹村に言い出した。
「何ですか、あなたに逢って、よく相談したいことがあるんだそうです。」

     五十五

 女のように柔和なその医者は、子供を診るのが上手であった。噛《か》んでくくめるように、容態なども詳しく話してくれるので、お銀も自然心易くしていた。一緒にいた芸妓《げいしゃ》あがりらしい女と、母親との折合いがわるくて、このごろ後釜《あとがま》に田舎から嫁が来ているという事情などもお銀はよく知っていた。
「あの書生さんが、またどことなく人ずきのする男ですよ。」とお銀はその薬局まで気に入っていた。
 お銀のことなどで、その医者に呼びつけられることは笹村にとって、あまり心持よくなかった。
「何んだつまらない、わざわざ人を呼びつけたり何かしやがって……。」
 笹村は帰って来ると、お銀に憤りを洩らした。笹村を詰問でもするらしい調子に出ようとした医者の態度は、お銀の若いその医者に対する甘えたような様子を想像せしめるに十分であった。
「今度は一つ、いい医者に診ておもらいなさらなけアいけませんよ。」
 医者のそう言った口吻《くちぶり》には、妻に対する良人の冷酷を責めでもするような心持がないとは言えなかった。
「高橋さんは何かあなたに失礼なことでも言ったんですか。」
 お銀は不思議そうな顔をした。
「だって私独りで病院へ行っても、明き盲ですからね。もし行くなら、高橋さんが婦人科の掛りを知っているから、一緒について行ってよく話をしてあげてもいい。とにかく一応あなたにも話すから……とそう言ったまでじゃありませんか。」
 この前にも知合いの医者に連れて行ってもらったことのあるお銀が、勝手の解らない広い病院で、あっちへまごまごこっちへまごまごするのが厭さに、始終出無精になっていたのは笹村にも呑み込めないことでもなかったが、そうした筋道の立ったお銀の言い分は、一層笹村の心をいらいらさせずにはおかなかった。
 不快な顔を背向《そむ》け合っていることが、幾日も続いた。笹村はそのまま病院へ行こうともしないでいる妻の無精を時々笑ったが、お銀はさほど気にもしないらしかった。
 前にもついて行ったことのある知合いの医者と一緒に、ある日大学の婦人科へ診てもらいに行ったのは、それから大分経ってからであった。
「今どこと言って、別に悪いところはないんですって……。」
 帰ってくると、お銀は晴れ着のまま、笹村の傍へ来て話し出した。
「ただお産の時に、子宮が少し曲ったんだそうですけれど、それは今度のお産の時にでも直せばいいそうです。今はほんの一週間も、洗うなら洗ってみてもいいって言うんですの。」
「へえ、そうかね。」笹村はその診断があっけないような気がした。
 潤沢《うるおい》も緊張《しまり》もないお銀の顔色は、冬になると、少しずつ、見直して来たが、お産をするごとに失われて行く、肉の軟かみと血の美しさは恢復《とりかえ》せそうもなかった。

     五十六

 そのころから、お銀はおりおり笹村の古い友達の前へ出て、酒の酌《しゃく》などをした。髪の抜け替わろうとしている鬢際《びんぎわ》の地の薄くすけて見えるお銀のやや更《ふ》けたような顔は、前よりはいくらか落ち着いてもいたし、媚《なまめ》かしさも見えた。そして遠慮なく膝を崩すような客に対する時の調子も、笹村が気遣ったほどには粗雑《がさつ》でもなかった。
 笹村が一週間ばかり、いろいろ紛糾《こぐらか》っている家庭の不快さを紛らしに、ふいと少しばかりのマネーを懐にして、海辺へ出て行った留守のまに、子供の帽子などを懐にして、宅《うち》を見舞ってくれる人などもあった。その男は、上《あが》り框《がまち》に腰かけてしば
前へ 次へ
全62ページ中44ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング