》をかいた。胴の長い痩《や》せぽッちなその骨格と、狭い額際との父親そっくりであるほか、この子が母親の父方の顔容《かおかたち》を受け継いでいることは、笹村にとってかえって一種の安易であった。
縁側を電車を引っ張って歩いていた正一も、側へ寄って来ると、赤子と一緒に苦痛らしい顔を顰めた。そして、「おッぱいやれ……。」と、母親に促した。
「どうも有難うございました。」
少しは力の恢復《かいふく》して来たお銀が、捲《ま》き髪《がみ》姿で裏から入って来たとき、笹村の顔色がまだ嶮しかった。笹村はその時、台所へ出て七輪の火を起して、昼のお菜《かず》を煮ていたが、甥も側に働いていた。昼過ぎから学校へ通っている甥が出かけて行った後は、笹村は毎日独りで静かな家のなかに臥《ね》たり起きたりしていた。時々母親が来て、飯を運んだり、台所を見たりするのであったが、笹村はそのたんびにあまりいい顔を見せなかった。こうして面倒を見たり見られたりしながら、親たちや弟に幅を利かせようとしているらしいお銀の心持が、哀れでもあり苦々しくもあった。笹村は自分の力を買い被《かぶ》られていることも、苦しかった。老い先の短い田舎の母親、自分の事業、子供のことも考えなければならなかった。
「僕が今、金で衆《みんな》をどうするというわけに行かんことはお前も知っていてくれなけア困る。」
笹村は衆《みんな》の前で時々お銀に言った。
「ええ、それどこじゃありませんとも。」
お銀も言ったが、笹村はやはり不安でならなかった。目に見えぬ侵蝕《しんしょく》の力が、とても防ぎきれないように考えられた。
「子供一人を取って別れるよりほかない。そして母と妹とを呼び寄せて、累《わずら》いのない静かな家庭の空気に頭を涵《ひた》しでもしなければ……。」
笹村は時々そういう方へ気が嚮《む》いて行った。物欲の盛んな今までの盲動的生活に堪えられないような気もした。虚弱な自分の体質や、消極的な性情が当然そうなって行かなければならぬようにも考えられた。
十日ばかりの男世帯で、家のなかが何となく荒れていた。お銀は上って来ると、めずらしそうにわが家を見廻したが、目には不安の色があった。
「お前に帰って来てもらわないつもりなんだがね。」笹村は侵入者を拒むような調子で言った。
「でも私だって自家《うち》が気にかかりますから……。」
叔父と甥と、何か巧《たくら》んでいるらしく、その場の光景が、しばらくぶりで帰って来たお銀の目に映った。お銀の猜疑《まわりぎ》は、笹村に負けないほど、いつも暗いところまで入り込んで行かなければ止《や》まなかった。
五十四
産は前より軽かったが、お銀の健康は冬になるまで恢復しなかった。一度水々しい艶《つや》を持ちかけて来た顔色は、残暑にめげた体と一緒に、また曇《うる》んで来た。手足もじりじり痩せて、稜立《かどだ》った胸の鎖骨のうえのところに大きな窪《くぼ》みが出来ていた。
ある知合いの医師《いしゃ》は、聴診器を鞄にしまうと、目に深い不安の色を見せて、髯《ひげ》を捻《ひね》りながら黙っていた。
「肺じゃないか。」
お銀が茶の室《ま》へ立って行ってから、笹村はたずねた。
笹村は比較的骨格の岩丈《がんじょう》な妻の体について、これまで病気を予想するようなことはめったになかった。どうかすると鼻《はな》っ張《ぱ》りの強いその気象と同じに、とても征服しきれない肉塊に対してでもいるような気がしていたが、それもだんだん頽《くず》されそうになって来た。笹村は自分の体を流れている悪い血を、長いあいだ灑《そそ》ぎかけて来たようにも思えて、おそろしくもあった。
「浜田さんか橋爪さんに、私一度見てもらいたい。」
お銀は時々そう言って、思うように肥立《ひだ》って来ない自分の体を不思議がったが、やはりずるずるになりがちであった。
「誰でもいいから予診をしてもらったらいいじゃないか。」
笹村もお銀の気の長いのを、時とするとじれったく思うことがあったが、衰弱がどこまで嵩《こう》じて来るか、じっと見ていたいような気もした。終局は誰が勝利を占めるか……そうしたブルタルな気分に渇《かわ》くこともあった。若いその医師《いしゃ》は、容易に症状を告げなかった。
「まあ大学か順天堂へでも行って診《み》ておもらいなすった方がいい。ひょっとすると、肺に少し異状がありゃしないかとも思う。」
「何だか少しおかしいぜ。」
笹村は医師が帰ってから、お銀に話しかけた。
「何だって言うんです。」
お銀は若い医師に、頭から信用をおかないような調子で言った。
明日その医師と一緒に病院へ診てもらいに行ったお銀の病気が、産後にはありがちな軽い腎臓病だということが解るまではお銀は何も手につかなかった。
「そうですかね。私もとうと
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