一度たずねてやる。」
 笹村は揶揄《からかい》半分に言った。
「そしてお前のここにいることを知らしてやろう。」

     五十二

 けれどそんなベッドの新しみは、長く続かなかった。枕紙に染《し》みついた女の髪の匂いの胸を塞《つま》らす時がじきに来た。笹村が渇《かつ》えていた本を枕元で拡げるようになると、開放された女も長四畳の方で、のびのびと手足を延ばして寝るのを淋しがらなくなった。
「ああ、何でもいいから速く身軽になりたい。」
 お銀は曇《うる》んだような目を光らせながら、懶《だる》い体を持ちあぐんでいた。
 笹村も、一度経験したことのある、お産の時のあの甘酸ッぱいような血腥《ちなまぐさ》いような臭気《におい》が、時々鼻を衝《つ》いて来るように思えてならなかった。
 それにお銀の背後には、多少の金を懐にして田舎から出て来て、東京でまた妻子を一つに集めて暮そうとしている父親や弟がいた。お銀は夫婦きりでいる四畳半の自分の世界を離れると、じきにその渦《うず》の中へ引き込まれずにはいられなかった。お銀の頭には、一家離散の悲しみが深く染みついていた。
「すぐこの先の車屋の横町に、家が一軒あるんですがね。」
 お銀はある日笹村に相談を持ちかけた。
 お銀はそれまでに、時々曇る笹村の顔色を幾度も見せられた。
「それをとにかく借りることにしようと思うんですがどうでしょう。父はそこからどこかへ勤めるんだそうです。芳雄も、今いるところは暑苦しくてしようがないとかで、やはり通いにしたいと言っていますから、二人で稼げば、そんなにむずかしいことじゃないと思うんですがね。」
「それじゃお爺さんもこっちに永住か。」
「やれるかやれないか、まあそういうつもりなんでしょう。」
「まあやって見たらよかろう。」
「そうすれば、私もお産をするところができて、大変に都合がいいんです。近くにいれば、赤ン坊の世話もしてもらえますから。」
 三人がそこへ移り住んだ時、笹村も正一をつれてぶらぶら行って見た。そしてちょっとした庭を控えた縁側から上り込んで、たまには母親が汲《く》んでくれる番茶に口を濡らして帰ることもあった。
 翫具《おもちゃ》の入った笊《ざる》などがやがて運ばれて、正一も大抵そこで寝泊りすることになった。
「正一はどんなにお婆さんの懐がいいんだか。」
 話しに行っていたお銀が、夜笹村の部屋へ帰って来ると、子供の言ったことやしたことを報告した。
「あれもお婆さんは嫌いなんだけれどしかたがないんだ。」笹村は打ち消した。
 お銀が琵琶《びわ》の葉影の蒼々した部屋で、呻吟《うめ》き苦しんでいると、正一はその側へ行って、母親の手につかまった。その日お銀は朝から少しずつ産気づいて来た。昼ごろには時をおいては来る痛みが一層間近になって来た。
「さあ私もう出ます。」
 お銀は昼飯のお菜拵《かずこしら》えなどをしてから、草履をはいて、産室の方へ出向いて行ったが、笹村はさほど気にもかけずにいた。二人はそのころ、不快な顔を背向《そむ》け合っているようなことが幾日も続いていた。
「あなたも来ていて下さいよ。」
 お銀は出がけに笹村に言った。
「みんないるからいいじゃないか。」
 笹村は呟《つぶや》いたが、やはり見に行かないわけには行かなかった。
 外には真夏の目眩《まぶ》しい日が照っていたが、木蔭の多い家のなかは涼しい風が吹き通った。
「くるちい?」
 子供は母親の顔を顰《しか》めて、いきむたんびに傍へ寄り添って、大人がするように自分の小さい手をかしてやった。そして手※[#「巾+白」、第4水準2−8−83、250−上−12]《ハンケチ》で玉のようににじみ出る鼻や額の汗を拭いた。
「おお、何てお悧巧《りこう》さんでしょう。自分もこうして阿母さんを苦しめた時もあったのにね。」
 産婆は泣くような声を出した。

     五十三

 産れた女の児《こ》が、少しずつ皮膚の色が剥《は》げて白くなって来るまでには大分間があった。くしゃくしゃした目鼻立ちも容易に調《ととの》って来なかった。笹村は見向きもしなかったが、乳房を哺《ふく》ませているお銀の様子には、前の時よりも母親らしい優しみが加わって来た。
 産婆は毎日来ては、湯をつかわせた。笹村も産児がどういう風に変化して行くかを見に行ったが、子供の顔は相変らず顰《しが》んでいた。
「何だいこれは……。」
 笹村はお七夜の時、産婆の手で白粉や紅をつけられて、目眩しそうな目を細めに開いている赤子を眺めて笑い出した。
 お銀も褥《とこ》のうえに起きあがって、蠢動《うごめ》く産児を見てにっこりしていた。
「いいですよ。こんな児がかえってよくなるものですよ。」
 お銀は自信がありそうに言った。
 老人のような皺《しわ》を目のあたりによせて、赤子は泣面《べそ
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