って、襟《えり》を堅く掻き合わした。
「あなたに乳をのまれると、阿母さんは体がぞッとするようで……お父さん辛《から》い辛いをつけてもよござんすか。」
 お銀はそう言っては唐辛《とうがらし》を少しずつ乳首になすりつけた。
 子供は二、三度それをやられると、じきに台所から雑巾を持って来て、拭き取ることを覚えた。
「どんなにお乳がおいしいもんだか。」と、老母《としより》は相好を崩して、子供の顔を覗《のぞ》き込んだ。
 しょうことなしに老母《としより》の懐に慣らされて来た子供は、夜は空乳《からちち》を吸わせられて眠ったが、朝になると、背《せなか》に結びつけられて、老母の焚《た》きつける火のちろちろ燃えて来るのを眺めていた。
「煙々《けぶけぶ》山へ行け、銭と金こっちへ来い。」
 子供は老母から、いつかそんな唄《うた》を教わって、時々人を笑わせた。
 母親から突き放されたこの幼児の廻らぬ舌で弁《しゃべ》ることは、自分自身の言語《ことば》のように、誰よりも一番よく父親に解った。いらいらしたような子供の神経は、時々大人をてこずらすほど意地を悪くさせた。湯をつぐ茶碗が違ったと言って、甲高《かんだか》な声で泣き立てたり、寝衣を着せたのが悪いと言って拗《す》ねたりした。
「床屋へ行って髪でも刈ってやりましょう。そしたらちっとせいせいするかも解らない。」
 お銀は思いついたように、下駄をはかして正一を連れ出して行った。

     五十一

 旅から帰って来た時ほど、軟かい心持のいいベッドに寝かされたことは、これまで笹村になかった。前庭と中庭との間に突き出た比較的落着きのいい四畳半に宵々お銀の手で延べられる寝道具は、皆ふかふかした新しいものばかりであった。
 お銀の赤い枕までも新しかった。板戸をしめた薄暗い寝室は、どうかすると蒸し暑いくらいで、笹村は綿の厚い蒲団から、時々冷や冷やした畳へ熱《ほて》る体をすべりだした。
「敷の厚いのは困る。」
「そうですかね。私はどんな場合にも蒲団だけは厚くなくちゃ寝られませんよ。家でも絹蒲団の一ト組くらいは拵えておきたい。」
 お銀は軟かい初毛《うぶげ》の見える腕を延ばして、含嗽莨《うがいたばこ》などをふかした。
 お銀の臆病癖《おくびょうぐせ》が一層|嵩《こう》じていた。それは笹村の留守の間に、ついここから二タ筋目の通りのある店家の内儀《かみ》さんが、多分その亭主の手に殺されて、血反吐《ちへど》を吐きながら、お銀の家の門の前にのめって死んでいたという出来事があってからであった。その血痕《けっこん》のどす黒い斑点《まだら》が、つい笹村の帰って来る二、三日前まで、土に染《し》みついていた。
 女はこの界隈《かいわい》を、のたうち廻ったものらしく、二、三町隔たった広場にある、大きな榎《えのき》の下に、下駄や櫛《くし》のようなものが散っていた。自身に毒を服《の》んだという話もあった。
 お銀は床のなかで、その女が亭主に虐待されていたという話をして、自分の身のうえのことのように怯《お》じ怕《おそ》れた。お銀の一時片づいていた男が、お銀に逃げ出されてから間もなく、不断から反《そ》りの合わなかった継母を斬《き》りつけたということは、お銀の頭にまた生々しい事実のように思われて来た。男はその時分、どんなに血眼《ちまなこ》になって仲人の手からうまく逃れた妻を捜しまわっていたか。毎日酒ばかり呷《あお》って、近所をうろつき廻っていた男の心が、どんなに狂っていたか、それは聞いている笹村にも解った。
「あなたと一緒に歩いている時、いつか菊坂の裏通りで出会《でくわ》したじゃありませんか。あれがそれですよ。」
「へえ。」
 笹村はその時お銀が、ふいと暗闇で摺《す》れ違った男のあったことだけは、今でも思い出せたが、お銀がその時泡を喰って、声を立てながら笹村の手に掴まったのは、わざとらしいこの女の不断の癖だろうと考えていた。お銀はその時、はっきりその男をそれと指ざすほど笹村に狎《な》れていなかった。その晩はしょぼしょぼ雨が降っていたが、男は低い下駄をはいて、洋傘《こうもり》をさしながら、びしょびしょ濡れていた。
「あれがそうですよ。お銀って、私の名を呼びましたわ。」
「へえ。」
「あの時あなたがいなかったら、私はどうかされていたかも知れないわ。それは乱暴な奴なんです。酒さえ飲まなければ、不断はごく気が小さいんですけれどね。」
 その家のことについて、新しい事実がまたお銀の口から話し出された。
「……私行った時から厭で厭で、どうしても一緒にいる気はしなかった。日が暮れると、裏へ出てぼんやりしていましたよ。裏は淋しい田圃に、蛙が鳴いてるでしょう。その厭な心持といったら……私泣いていたわ。そして何かといっちゃ、汽車に乗って逃げて来たの。」
「その家を、僕は
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