は、お銀が笹村のところへ来てから間もなく、脚気《かっけ》で田舎へ帰った。そしてそこで今日まで暮して来た。東京で薬剤師になろうとしていたこの弟は、そんなことを嫌って、洋服裁縫にかなりな腕を持っていた。
「弟《あれ》も東京《こっち》で早くこんな店でも出すようにならなけア……。」と、外で洋服屋の前を通ると、お銀は時々田舎にいる弟のことを言い出していた。二十四、五になったら、田舎の親類からそれだけの資本は出してもらえる的《あて》もついていた。
「田舎においちゃ腕が鈍ってしまうだろうがね。」笹村も時々それを惜しむような口吻《くちぶり》を洩らした。
「一体田舎で何しているんだ。」
「このごろは体もよくなって、町で仕事をしているという話ですがね。女が出来たという噂もあるんですけれど……そのことは、去年欽一兄さんが養家先へ帰った時聞いて来たんですの。」
 その日は、留守中の出来事や子供の話で日が暮れた。お銀はそこへ取り散らされたいろいろの土産もののなかから、梅干の一折を見つけて、嬉しそうに蓋《ふた》を開けて見ていた。その梅干には東京やお銀の田舎では、味わうことのできぬ特殊の味わいがあった。かき餅もお銀の好物であった。
「阿母《おっかあ》さんが、まアたくさん下すった。お国の梅はどこか異《ちが》うんですかね。」
 子供は叔母からの贈り物の大きな軍艦や起きあがり小法師のようなものをあッち弄《いじ》りこっちいじりして悦んだが、父親の傍へは寄って来なかった。そして時々視線が行き会うと、妙にそれを避けるような様子があった。
「何だか窶《やつ》れているようだね。」
 笹村は腺病質《せんびょうしつ》の細いその頚筋《くびすじ》を気にした。
「いいえ、そんなことはないでしょう。随分元気がいいんですよ。お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ。」
「ふとしたら、僕甥が一人来るかも知れんがね。とうとうまた推《お》っつけられた。」
 笹村は久しぶりでお銀と一緒に書斎へ入った時言い出した。そのことはお銀も待ち設けないことでもなかった。
 お銀は浮き浮きした調子で、飲みつけない莨《たばこ》を吸いつけて笹村の口に当てがいなどした。

     五十

 旅で養って来た健康は、じきに頽《くず》れて来た。田舎の母の同居してる家では、リュウマチを患《わずら》っている老人のために、上州の方から取り寄せられた湯の花で薬湯がほとんど毎日のように立てられた。笹村もそのたんびにその湯に浸った。それにそこは川を隔ててすぐ山の木の繁みの見えるところで、家の周《まわ》りを取り繞《めぐ》らした築土《ついじ》の外は田畑が多かった。広縁のゆっくり取ってある、廂《ひさし》の深い書院のなかで、たまに物を書きなどしていると、青蛙《あおがえる》が鳴き立って、窓先にある柿や海棠林檎《かいどうりんご》の若葉に雨がしとしと灑《そそ》いで来る。土や木の葉の匂いが、風もない静かな空気に伝わって、刺戟の多い都会生活に疲れた尖《とが》った神経が、軟かいブラシで撫でられるようであった。そこへ母や妹が入って来さえしなければ、笹村はいつまでも甘い空想を乱されずにいることが出来た。
 たまには傘をさして、橋を渡って、山裾《やますそ》の遊廓《ゆうかく》の方へ足を入れなどした。京の先斗町《ぽんとちょう》をでも思い出させるような静かな新地には、青柳《あおやぎ》に雨が煙って檐《のき》に金網造りの行燈《あんどん》が点《とも》され、入口に青い暖簾《のれん》のかかった、薄暗い家のなかからは、しめやかな爪弾《つまび》きの音などが旅客の哀愁をそそった。笹村は四、五歳のおり、父親につれられて行って、それらの家の一軒の二階の手摺り際から眺めた盆踊りのさまや、祭の日にこっちの家の二階から向かいの家の二階へかかった床《ゆか》に催される手踊りなどを思い出していた。
 笹村は奥まった二階の座敷で、燭台の灯影のゆらぐ下で、二、三杯の酒に酔いの出た顔を焦《ほて》らせながら、たまには上方語《かみがたことば》のまじる女たちの話に耳を傾けた。女たちのなかには、京橋の八丁堀で産れて、長く東京で左褄《ひだりづま》をとっていたという一人もあった。
「ここは駄目です。さアという場合に片肌ぬぐなんてことはありませんから。」
 その女は生温《なまぬる》い土地の人気が肌に適《あ》わぬらしく見えた。
「その代りお座敷は暢気《のんき》ですの。」
 東京へ帰って来てからの笹村は、しばらく懶《なま》け癖がぬけなかった。昼は庭に出て草花の種を蒔《ま》いたり、大分足のしっかりして来た子供を連れ出して、浅草へ出かけなどした。
 だんだん腹の大きくなって来たお銀は、側に寄りつく子供に対して、一層|嶮《けわ》しくなった。そして、「おッぱい、ないない。」と言
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