には、すがすがしい朝の涼風が当って、目から涙がにじみ出た。
笹村は半日と顔を突き合わして、しみじみ話したこともなかった母親の今朝のおどおどした様子や、この間中からの気苦労な顔色が、野面《のづら》を走る汽車を、後へ引き戻そうとしているようにすら思えてならなかった。孤独な母親の身の周《まわ》りを取り捲《ま》いている寂寞《せきばく》、貧苦、妹が母親の手元に遺《のこ》して行った不幸な孤児に対する祖母の愛着、それが深々と笹村の胸に感ぜられて来た。
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……まことに本意ないお別れにて、この後またいつ逢われることやら……門の外までお見送りして内へ入っては見たれど、坐る気にもなれず、おいて行かれし着物を抱きしめていると、鼻血がたらたら流れて、気がとおくなり申し候《そうろう》……
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東京へつくと、すぐに、こんな手紙を受け取った笹村の目には、今日までわが子の坐っていた部屋へ入って行った時の、母親のおろおろした姿がありあり浮ぶようであった。
「これだから困る。このくらいならなぜいるうちに、もっと母子《おやこ》らしく打ち解けないだろう。」
笹村は手紙をそこへ投《ほう》り出して、淋しく笑った。そして「もう自分の子供《もの》じゃない。」とそう思っている母親を憫《あわ》れまずにはいられなかった。
いるうちに、笹村は一、二度上京を勧めてみたが、母親の気は進まなかった。東京へ来て、知らない嫁に気を兼ねるのも厭だったし、孫娘も人なかへ連れて行くのは好ましくなかったが、それよりも、笹村の考えているようにそう手軽に足を脱《ぬ》くことのできない事情が、そこにいろいろ絡《まつ》わっていた。そしてそれを言い出すほどの親しみが、まだ二人の間に醸《かも》されていなかった。
「いい画が家にあったが、あれも売ってしまったんだろうな。」
笹村は少年時代に、ふと暗い物置のなかの、黴《かび》くさい長持の抽斗の底から見つけたことのある古い画本のことを思い出して、母親に訊《たず》ねるともなしに言い出した。その画が擬《まが》いもない歌麿《うたまろ》の筆であったことは、その後見た同じ描者《かきて》の手に成った画のしなやかな線や、落着きのいい色彩から推すことができた。
笹村は姉の家の二階に預けてある、その古長持のなかにある軸物や、刀のようなものを引っくら返して見た時、その画本を捜して見たが、どこにも見つからなかったので、ふと母親に確かめてみる気になった。
母親は怪訝《けげん》そうに、にっこりともしないで、わが子の顔を眺めた。
「嫁さんは素人《しろうと》でないとかいう話やが、そうかいね。」
母親はふと訊《き》いた。
「戯談《じょうだん》じゃない。新《しん》がそういうことを吹聴《ふいちょう》したんでしょう。」
笹村はそれを手強く打ち消した。
母親の方からも、笹村の方からも、それきり双方の肝要な問題に触れずにしまった。笹村は時々外で泊ることすらあった。
お銀のところから、帰りを促した手紙が来ると、母親は口へ出して止めることさえ憚《はばか》った。
「……つまらんこっちゃ。」
立つ朝、いそいそと荷造りをしている笹村の側で、母親はふと言い出した。そして何か手伝おうとして、笹村に一ト声|邪慳《じゃけん》に叱り飛ばされて、そのまま手を引っ込めてしまうのであった。
四十九
この慈母の手を離れて、初めて東京へ出た当時のことなどを笹村は思い出していた。そのころは笹村も時々長い手紙も書いたし、どこかへ勤めることになったと言っては、手もとの苦しいなかから礼服なども送ってもらった。少しばかりの収入にありつくようになってからは、そのなかからいくらかずつ割《さ》いて贈ることも怠らなかった。
「これからは金もちっとはきちきち送らなけア……。」
笹村は頷《うなず》いたが、汽車が国境を離れるころには、自分の捲き込まれている複雑な東京生活が、もう頭に潮のように差しかけていた。妻や子のことも考え出された。
翌朝新橋へ着いた時分は、町はまだ静かであった。地面には夜露のしとりがまだ乾かぬくらいで、葭簾《よしず》をかけた花屋の車からは、濃い花の色が鮮かに目に映った。都会人のきりりとした顔や、どうかすると耳に入る女の声も胸が透くようであった。
腕車《くるま》から降りて行った笹村は、まだ寝衣《ねまき》を着たままの正一が、餡麺麭《あんパン》を食べながら、ひょこひょこと玄関先へ出て来るのに出逢った。子供は含羞《はにか》んだような、嬉しそうな顔を赧《あか》らめて、父親の顔を見あげた。その後から、お銀も母親も出て来た。丈の高いお銀の父親の姿も現われた。弟も茶の室《ま》にまごまごしていた。
この弟の出て来ることは、国へ立つ前から笹村も承知していた。東京で育ったこの弟
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