立っていた。子供は火がつくようにまた便通を訴えた。勝手のわからない人たちは、そこらをまごまごした。
病室は往来へ向いたかなり手広な畳敷きであった。薄暗い電燈の下に、白いベッドが侘《わび》しげに敷かれてあった。
「坊やいや。」子供はそのベッドに寝かされるのを心細がった。
「お家へ帰ろう。」
「病気がよくなったらね。いい児《こ》だからここへ寝んねするんですよ。お医師《いしゃ》さまに叱《しか》られますよ。」
「いやだ……帰ろう……。」子供は頑強《がんきょう》に言い張った。そして疳《かん》の募ったような声を出して泣き叫んだ。終いには腰の立たない体をベッドから跳《は》ね出して、そこらをのた打ちまわった。笹村はびしゃりとその頬を打ったが、子供は一層|怯《お》じ怖《おそ》れてもがいた。
女中は女の子を負《おぶ》いながら、傍にうろうろしていた。
「どうも何だか駄目のようですね。」
お銀は畳の上へ転がりだして、もがきつかれて急《せわ》しい息遣いをしながら眠っている子供の顔を眺めて、落胆《がっかり》したように言い出した。
「これじゃ助かるところも助からんかも知れませんよ。そのくらいならいっそ家で介抱してやった方がようござんすよ。可哀そうですもの。」
「そうだね。」笹村も溜息をついた。
後で解って来たとおりに、この病院が温かく家庭的に出来ているのが、その晩の医員や女事務員のお世辞ッ気のない態度では、かえってその反対に受け取られた。それも何だか二人には厭であった。
「とにかく院長が診《み》るまで待とう。」
院長はその日は、千葉の分院へ出張の日であった。
寝たまま便を取らせたり、痛い水銀|灌腸《かんちょう》をとにかく聴きわけて我慢するほどに、子供が病室に馴《な》らされるまでには、それから大分|日数《ひかず》がかかった。
「病勢はもっともっと上る。その峠をうまく越せれば、後は大して心配はなかろう。」
入院の翌日に、初めて診察に来た老院長の態度は尊いほど物馴れたものであった。
六十九
病室の片隅に、小さい薄縁《うすべり》を敷いてある火鉢の傍で、ここの賄所《まかないじょ》から来る膳や、毎日毎日家から運んでくる重詰めや、時々は近所の肴屋《さかなや》からお銀が見繕《みつくろ》って来たものなどで、二人が小さい患者の目に触れないようにして飯を食う日が、三十幾日と続いた。患者が人の物を食っているのを見て、柵《さく》のなかの猿のように、肉の落ちた頬をもがもがさせて、泣面《べそ》をかくほどに食欲が恢復《かいふく》して来たのは、院長からやっと二粒三粒の米があってもさしつかえのないお粥《かゆ》や、ウエーファ、卵の黄味の半熟、水飴《みずあめ》などを与えてもいいという許しが、順に一日か二日おいては出るころであったが、その以前でも飲食物その他何によらず、患者はおそろしく意地が曲っていた。
「坊や厭になった。」
患者は院長のいわゆる苦しい峠を越して、熱がやや冷《さ》めかけてからは、ベッドの周《まわ》りに並べられたり、糸で吊るされたりしてある翫具《おもちゃ》にも疲れて来ると、時々さも飽き飽きしたようにベッドに腰かけて、乾いた唇の皮を噛《か》みながら、顔をしかめて気懈《けだる》そうに呟いた。
「ああそうともそうとも。」とお銀は傍から慰めた。
「もう少しの辛抱ですよ。辛抱していさえすれば、今に歩行《あんよ》もできるし、坊やの好きな西洋料理も食べられるし、衆《みんな》で浅草へでもどこへでも行きましょうね。」
便が少しよくなるかと思うと、また気になる粘液が出たり、せっかくさがった熱が上ったりして、傍《はた》で思うほど捗々《はかばか》しく行かなかった。笹村は外から帰って来でもすると、きっと体温表を取りあげて見たり、検温器を患者の腋《わき》に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28、273−上−22]入《そうにゅう》したりして、失望したり、慣《じ》れったがったりしたが、外へ出ない時も、お銀にばかり委《まか》せておけなかった。
微温湯《ぬるまゆ》の潅腸が、再び水銀潅腸に後戻りでもすると、望みをもって来た夫婦の心が、また急に曇った。笹村は潅腸をやったり、体温や脈搏《みゃくはく》などをとりに来る看護婦に、時々いろいろなむずかしいことを訊いた。
「あんまり訊くのはおよしなさいましよ。うるさがりますよ。」
お銀は後で笹村に言った。
「もうあなたここまで漕《こ》ぎつけたんですもの。そう焦燥《やきもき》しないでいた方がよござんすよ。」
今夜がもう絶頂だといって、院長が夜更《よなか》に特別に診察にまわって、心臓の手当てらしい頓服《とんぷく》をくれた前後の二、三日は、笹村は何事をも打ち忘れて昏睡に陥っている子供の枕頭《まくらもと》に附ききっていた
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