うやく目がさめたが、睡眠不足の頭は一層重かった。軍歌は板塀を隔てた背後《うしろ》の家の子供が謳《うた》っているのであった。
 庭向きの下の座敷へ移ったころには、笹村も大分下宿に昵《なじ》んで来た。時々お銀に厭な気質を見せられると、笹村の神経は一時に尖って来た。そして寄食している法律書生を呼びつけて、別れる相談をした。そういう時の笹村は一刻《いっこく》に女を憎むべきものに思い窮《つ》めた。
「私だってこうしていてもつまらないから……。」
 女も、母親や書生の前で、負目《ひけめ》を見せまいとした。その言い草が一層女の経歴について笹村に悪いヒントを与えた。そして不断は胸の底に閉じ籠められていたようなことまでが、一時にそれぞれの意味をもって、笹村の頭をいら立たせた。
「お前たちはまるで妾根性《めかけこんじょう》か何かで、人の家にいるんだ。」
「ええ、どうせ私たちのような物の解らないものは、あなたのような方の家には向かないんです。」
 お銀は蒼い顔をしながら言い募った。
「それならそれで、父でも呼び寄せて話をつけて下さればいいのに、いくら法律を知っているたって、若山さんなどと相談して、まるで私たちを叩き出すようなことばかりなすって……。」
 いらいらした二人の心持は、どこまでもはぐれて馳《はし》らずにはいなかった。

     四十二

 一定の時が経つと、憎悪後悔の念が迹方《あとかた》もなく胸に拭《ぬぐ》い去られて、女はまた新しいもののように笹村の目に映った。そんな時のお銀は、初めて逢った時の女の印象を喚《よ》び起さすに十分であった。
 一日二日、笹村はまた家の人となっていた。そして下宿へ帰って来ても、頭はまた甘い追想に浸されていた。じきにまたそれの裏切られる時の来るのを考えようとすらしなかった。
「私はほんとに逐《お》い出されるかと思った。あなたはどうしてあんなでしょう。」
 お銀は発作的に来る笹村の感情の激変を不思議がらずにはいられなかった。
「僕も苦しい。」笹村も苦笑した。
「出て行くところがないと思って、ああ言うかと思うと、私もなお強味に出るんです。」お銀は笑いながら言い出した。
「お前の言い草も随分ひどいからね。嵩《かさ》にかかって来られると、理窟など言っている隙《ひま》がない。」
「私はまたあなたに、かッと来られると気がおどおどしてしまって、どうしてよいかさっぱり解らなくなってしまうんですよ。……それがやはり教育がないせいなんですねえ。そのために、私あなたの前でどのくらい気が引けるか知れない。親たちを怨《うら》みますよ。」お銀は萎《しお》れたような声で言った。
 笹村は、女に対する自分の態度の謬《あやま》っていることが判るような気がした。お銀に柔順《すなお》な細君を強《し》いながら、やはり妾か何かを扱うような荒い心持が自分にないとも言えなかった。そして、そこにまたその日その日の刺戟と興味を充《み》たして行くのではないかとも思った。
「それでも学校へは行ったろう。」
 笹村はお銀の生立ちについて、また何かを嗅ぎ出そうとしているような目容《めつき》で言った。
「え、それは少しは行ったんです、湯島学校へ……。お弁当を振り振り、私あの辺を歩いてましたわ、先生の言うことなんかちっとも聞きゃしなかった私……。」お銀はごまかすように笑い出した。
「叔父さんがなぜ行《や》らなかったろう。」
「叔父ですか。どうしてですかね。景気のいい時分は、自分で遊んでばかりいたんでしょう。それにその時は、私ももう年を取っていたのですから学問なぞは、私の柄になかったんでしょう。」
「でも手紙くらいは書けるだろう。」
「いいえ。」
「少しやって御覧。僕が教えてやろう。」
「え教えて下さい。真実《ほんとう》に……。」と言ったが、笹村はついお銀の字を書くのを見たことがなかった。
 下宿へ帰ると、笹村はある雑誌から頼まれた戦争小説などに筆を染めていた。その雑誌には深山も関係していた。笹村は深山の心持で、自分の方へ出向いて来たその記者から、時々深山のことを洩れ聞いた。
 筆を執っている笹村は、時々自分の前途を悲観した。M先生の歿後《ぼつご》、思いがけなく自然《ひとりで》に地位の押し進められていることは、自分の才分に自信のない笹村にとって、むしろ不安を感じた。
「君は観戦記者として、軍艦に乗るって話だが、そうかね。」
 谷中の友人がある日、笹村の顔を見ると訊き出した。
「けれど、それは子供のない時のことだよ。危険がないと言ったって、何しろ実戦だからね。」
 友人はそう言って、笹村の意志を翻《ひるがえ》そうとした。
 そんな仕事の不似合いなことは、笹村にもよく解っていた。

     四十三

 夏の半ば過ぎに、お銀たちの近くのある静かな町で、手ごろな家が一軒見つかった
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