ころには、二人の心はまた新しい世帯の方へ嚮《む》いていた。前の家を立ち退く時、話が急だったので、笹村は一緒に出るような家を借りる準備も出来なかった。仮に別居しているうちに、結婚を発表するに適当な時機を見つけようとも考えていた。
「ばかばかしい、こんなことをしていては、やはり駄目ですよ。いつまで経っても、道具一つ買うことも出来やしない。」
 お銀は下宿の帳面を見ながら、時々呟いていた。
 通りかかりに見つけたその家のことをお銀の口から聞くと、笹村は急いで見に行った。
 家は人通りの少い崖と崖との中腹のような地面にあった。腐りかけた門のあたりは、二、三本|繁《しげ》った桐《きり》の枝葉が暗かったが、門内には鋪石《しきいし》など布《し》かって、建物は往来からはかなり奥の方にあった。三方にある廃《あ》れた庭には、夏草が繁って、家も勝手の方は古い板戸が破《こわ》れていたり、根太板《ねだいた》が凹《へこ》んでいたりした。けれど庭木の多い前庭に臨んだ部屋は、一区画離れたような建て方で、落着きがよかった。
 笹村はじきに取り決めて帰ったが、何の用意もなしにそう早急に移って行くことは、お銀にはあまり好ましくなかった。いよいよ住むとなると、廃《あ》れたようなその家にも不足があった。
「もっとどうとかいう家がないものですかね。井戸が坂の下にあるんじゃしようがないわ。」
 お銀は笹村から家の様子を詳しく聞くと進まぬらしい顔をした。お銀の頭脳《あたま》には、かつて住んでいた築地や金助町の家のような格子戸造りのこざっぱりした住家が、始終描かれていた。掃除ずきなお銀は、そんなような家で、長火鉢を磨いたり、鏡台に向ったりして小綺麗に暮したかった。それに、ここを出るにしても、少しは余裕をつけて、手廻りのものなど調《ととの》えてからにした方が、近所へも体裁がいいと考えていた。
「あなたは門さえあればいいと思って……。」お銀はそうも言った。
「だけど、そういい家があるもんじゃないよ。あすこなら客が来ても当分子供のいることも解らないし、井戸の遠いくらいは我慢してくれなくちゃ困る。」
 やがてバケツに箒《ほうき》などを持たせて、書生と一緒に出かけて行った笹村は、裏から水を汲んで来て黴《かび》くさい押入れや畳などを拭いていた。そして疲れて来ると、縁側へ出て莨をふかしていた。高台に建てられた周《まわ》りの広い廃屋《あばらや》は、そうしていると山寺にでもいるように、風も涼しく気も澄んでいた。
 じきにお銀が子供を負って来て、笹村の傍において行った。
「お願い申しますよ。狭いところを危くてしようがありませんから。」
 子供は白い女唐服《めとうふく》を着ながら広い部屋のなかを、よちよちと笹村の跡へついて来ては歩いていた。そして少し歩くと畳の上に尻餅を搗《つ》いた。口も少しは利けた。
 落ち着いてからも、井戸の遠いことや、畳のじめじめする茶の間の陰気くさいことが、女たちの苦情になっていたが、笹村は初めて庭の広い家へ来たのが、心持よかった。そして外へ出ると、時々|配《わ》けてもらった草花を、腕車《くるま》の蹴込《けこ》みへ入れて帰って来た。中庭の垣根のなかには、いろいろのものが植えられた。中にはお銀と二人で、薬師の縁日で買って来たものもあった。
 子供は靴をはいて、嬉々《きき》と声を出して庭を歩き廻った。笹村はそれを前庭の小高い丘の上へ逐《お》いあげ逐いあげしては悦んだ。
 お銀は少しずつ家に馴れて来たが、それでも日が暮れてからは、一人外へ出るようなことはめったになかった。夜もおちおち眠らないことが多かった。
 桜の葉が黄ばんで散る時分に、妊娠の徴候がまたお銀の体に見えて来た。

     四十四

 お銀からその話を聞かされた時、笹村は、
「また手を咬《か》まれた。」というような気がした。そして責任を脱れたいような心持は、初めての時よりも一層激しかった。
 次第に好奇心の薄らいで来た笹村は、憑《つ》いていたものが落ちたように、どうかすると女から醒《さ》めることが時々あった。そんな時の笹村の心は、幻影が目前《めさき》に消えたようで寂しかった。そうして一度|頓挫《とんざ》した心持は、容易に挽回《とりかえ》されなかった。厭わしいような日が幾日も続いた。
 そんなことはお銀にも同じようにあるらしかったが、冷熱はいつも男よりか順調であった。
「あなたは人を翫弄《おもちゃ》にする気だったんです。あの時の言い草がそうだったんですもの。男はずうずうしいものだと、私はそう思った。」
 お銀は以前の話が出ると、時々そんなことを言って淋しそうに笑った。
「何だかおかしいようだね。」
 笹村は、腹を気にしているお銀の顔を眺めながら言った。
「二タ月も三月も隔たっていて、それで子ができるなんて……。」
 
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