をやっていたが、東京なれぬ細君には勝手が解らなかった。そこから本郷の大学へ通っていた良人とは、国で芸者をしているころからの馴染みで年は七、八つ女の方が上であった。お銀も子供を抱いて、その家へよく話しに行ったが、男同士もじきに隔てのない仲になった。岡田というその男は、角帽子を冠って出るようなことはめったになかった。そして始終長火鉢の傍にへばり着いていた。
 子供はその細君の膝に引き取られて、頬を接吻《せっぷん》されたり抱き締められたりしていた。
 五月には、笹村が通りから買って来た内飾りが、その家の明るい二階に飾られた。ヒステレーの気味のあった細君は岡田が留守になると、独りで長火鉢の傍に、しくしく泣いているようなこともめずらしくなかった。二人で言合いをしている声も、時々裏から洩れ聞えた。
 お銀母子と、その時分寄宿していた笹村の親類先の私立大学へ出ている一人の青年との入っていられるような家を一軒取り決めて、荷物をそこへ運び込む時も、子供は半日岡田の細君の背《せなか》に負《おぶ》われていた。その家はそこから本郷に出る間の、ある通りの裏であったが、笹村はそこへ三人を落ち着かしてから、また自分の下宿を捜しに出なければならなかった。
「この家で、とうとうお正月を二度しましたね。」
 お銀は引越の日に、いろいろのものの取り出された押入れの前にベッタリ坐って、思いの深そうに言い出した。
「こんな家でも、さア出るとなると何だか厭な気のするもんですね。」
 笹村も、お銀が初めてここへ来てからのことが、思い出された。足かけ二年のあいだに、ここの台所の白い板敷きも、つるつると黝《くろ》い光沢《つや》をもって来た。
 時々袷羽織の欲しいような、風のじめつくころであった。笹村が持ち込んで来た行李に腰かけて、落着きのない家を見廻していると、岡田の細君は、背《せなか》で泣く子を揺《ゆす》りながら縁側をぶらぶらしていた。お銀はせッせとそこらを雑巾がけしていたが、時々思い出したように、「バア。」と子供の方へ顔を持って行っては、しゃがんで張って来る乳房を見せた。障子の取りはずされた縁側から吹き込む風が、まだ肌に寒いくらいであった。

     四十一

 笹村の出て行った下宿は、お銀たちのいるところからは、坂を一つ登った高台にあった。見晴しのいいバルコニーなどがあって、三階の方の部屋は軟か物などを着ている女中の所管《もち》と決まっていた。暑中休暇の来るまで笹村は落着き悪い二階の四畳半に閉じ籠っていたが、去年の夏いた牛込の宿よりは居心がよかった。
 気が塞《つま》って来ると、笹村はぶらぶら家の方へ行って見た。家には近所の菎蒻閻魔《こんにゃくえんま》の縁日から買って来た忍《しのぶ》が檐《のき》に釣られ、子供の悦ぶ金魚鉢などがおかれてあった。お銀は障子を伝い歩行《あるき》している子供の様子に目を配りながら、晩に笹村の食べるようなものを考えなどしていたが、笹村は余所《よそ》の家へでも来たように、柱に倚《よ》りかかって莨《たばこ》を喫《ふか》していた。笹村は下宿にいる人たちなどと、自分との距離の大分遠くなっていることを、しみじみ感じずにはいられなかった。下宿人のなかには、役所から退けて来ると、友達と一緒に夜おそくまで酒を飲んで、棋《ご》など打っている年老《としと》った紳士も二、三人紛れ込んでいたが、その心持は、周囲の学生連と大した相違はなさそうに見えた。それが笹村には羨《うらや》ましいようであった。
 夜になると、お銀は子供を抱え出して、坂のうえあたりまで一緒について来たが、子供に「ハイちゃい」をして下宿へ入って行く笹村は、下宿の空気とはどうしても融け合うことのできぬあるものが、胸にこだわっていた。もう試験を済ましてしまった学生連は、どこの部屋にも陽気な笑い声を立てていた。腕車《くるま》で飛び歩いている連中や、荷物を纏《まと》めている人たちもあった。笹村は台所の上になっている暑い自分の部屋を出て、バルコニーの方へ出ると、雨に晒《さら》された椅子に腰かけて、暗いなかで莨を喫《ふか》していた。そこへ二、三人の学生が出て来た。白粉の匂いのする女中たちも出て来た。
 笹村は齲歯《むしば》が痛み出して、その晩おそくまで眠られなかった。笹村は逆上《のぼ》せた頭脳《あたま》を冷《さ》まそうとして、男衆に戸を開けさせて外へ出た。外は雨がしぶしぶ降って、空は真闇《まっくら》であった。風も出ていた。その中を笹村は春日町《かすがちょう》の方へ降りて行った。
 暗い横町で、ばたばたと後を追っ駈けて来て体を検《しら》べる二人の角袖に出逢いなどしたが、足は自然《ひとりで》に家の方へ向いて行った。
「敵――の――生命《いのち》――と頼みたる……。」
 こんな軍歌の声に襲われながら、笹村は翌朝十時ごろよ
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