うものから来る一種の匂いが漂うて、涼しい風が疲れた産婦の顔に、心地よげに当った。笹村の胸にもさしあたり軽い歓喜《よろこび》の情が動いていた。
「随分骨が折れましたね。」産婆はやっと坐って莨《たばこ》を吸った。
「このぐらい長くなりますと、産婆も体がたまりませんよ。私もちょッと考えたけれど、でも頭さえ出ればもうこっちのものですからね。」
「そんなだったですか。」と言うように笹村は産婆の顔を見ていた。
頭が出たきりで肩がつかえていた時、「それ、もう一つ……。」と産婆に声をかけられて、死力を出していた産婦の醜い努力が、思い出すとおかしいようであった。
「もっと自然に出るということに行かないもんですかね。」
「そんな人もありますよ。けど何しろこのぐらいの赤ちゃんが出るんですもの。」と産婆は笑った。笹村は当てつけられているような気がして、苦笑していた。
汚い聴診器で産婦の体を見てから、産後の心着きなどを話して引き揚げて行くと、部屋は一層静かになった。
母親は黙って、そこらを片着けていたが、笹村も風通しのいい窓に腰かけて、いつ回復するとも見えぬ眠りに陥《お》ちている産婦の蒼い顔を眺めていたが、時々傍へ寄って赤子の顔を覗《のぞ》いて見た。
その日は産を気遣って尋ねてくれた医師《いしゃ》と一緒に、笹村は次の室《ま》で酒など飲んで暮した。産婦は目がさめると、傍に寝かされた赤子の顔を眺めて淋しい笑顔を見せていたが、母親に扶《たす》けられて厠《かわや》へ立って行く姿は、見違えるほど痩せてもいたし、更《ふ》けてもいた。赤子は時々、じめじめしたような声を立てて啼いた。笹村は、牛乳を薄く延ばして丸めたガーゼに浸して、自分に飲ませなどした。
翌朝《あした》谷中の俳友が訪ねて来た時、笹村は産婦の枕頭《まくらもと》に坐っていた。
「そう、それはよかった。」
裁卸《たちおろ》しの夏羽織を着た俳友は、産室の次の室へ入って来ると、いつもの調子でおめでたを述べた。沈んだ家のなかの空気が、にわかに陽気らしく見えた。
「どうだね、それで……。」と、俳友はいろいろの話を聴き取ってから、この場合笹村の手元の苦しいことを気遣った。
「少しぐらいならどうにかしよう。」
「そうだね、もし出来たらそう願いたいんだが……。」笹村はそのことも頼んだ。
二人の前には、産婦が産前に好んで食べた苺《いちご》が皿に盛られ
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