てあった。
二十八
産婦は長くも寝ていられなかった。足や腰に少し力がつくと、起き出して何かして見たくなった。大きな厄難《やくなん》から首尾よく脱《のが》れた喜悦《よろこび》もあったり、産れた男の子が、人並みすぐれて醜いというほどでもなかったので、何がなし一人前の女になったような心持もしていた。
七夜には自身で水口へ出て来て、肴《さかな》を見繕ったり、その肴屋と医者とが祝ってくれた鯉《こい》の入れてある盥の前にしゃがんで見たり、俳友が持って来てくれた、派手な浴衣地《ゆかたじ》を取りあげて見たりしていた。産婆は自分の世話をするお終《しま》いの湯をつかわせて、涼風の吹く窓先に赤子を据え、剃刀《かみそり》で臍《へそ》の緒《お》を切って、米粒と一緒にそれを紙に包んで、そこにおくと、「ここへ赤ちゃんの名と生年月日時間をお書きになってしまっておいて下さい。」と、笹村に言った。
「あなた何かいい名をつけて下さいよ。」
産婦は用意してあった膳部や、包み金のようなものをいろいろ盆に載せて、産婆の前においた。
「はじめてのお子さんに男が出来たんだから、あなたは鼻が高い。」と、無愛想な産婆もお愛想笑いをして猪口《ちょく》に口をつけた。
笹村は苦笑いをしていたが、時々子供を抱き取って、窓先の明るい方へ持ち出しなどした。赤子は時々|鼠《ねずみ》の子のような目をかすかに明いて、口を窄《すぼ》めていたが、顔が日によって変った。ひどく整った輪廓を見せることもあるし、その輪廓がすっかり頽《くず》れてしまうこともあった。
「目の辺があなたに似てますよ。だけどこの子はお父さんよりかいい児になりますよ。」
お銀はその顔を覗き込みながら言った。
七夜過ぎると、笹村は赤子を抱いて、そっと裏へ出て見た。そして板囲いのなかをあっちこっち歩いて見たり、杜松《ひば》などの植わった廂合《ひさしあ》いの狭いところへ入って、青いものの影を見せたりした。赤子はぽっかり目を開いて口を動かしていた。目には木の影が青く映っていた。その顔を見ていると、笹村は淡い憐憫《れんびん》の情と哀愁とを禁じ得なかった。そしていつまでもそこにしゃがんでいた。
「早くやろうじゃないか。今のうちなら私生児にしなくても済む。」
笹村は乳房を喞《ふく》んでいる赤子の顔を見ながら、時々想い出したように母親の決心を促した。
「私育て
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