徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)笹村《ささむら》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)時々|枕頭《まくらもと》へ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「巾+白」、第4水準2−8−83、179−下−15]
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     一

 笹村《ささむら》が妻の入籍を済ましたのは、二人のなかに産《うま》れた幼児の出産届と、ようやく同時くらいであった。
 家を持つということがただ習慣的にしか考えられなかった笹村も、そのころ半年たらずの西の方の旅から帰って来ると、これまで長いあいだいやいや執着していた下宿生活の荒《さび》れたさまが、一層明らかに振り顧《かえ》られた。あっちこっち行李《こうり》を持ち廻って旅している間、笹村の充血したような目に強く映ったのは、若い妻などを連れて船へ入り込んで来る男であった。九州の温泉宿ではまた無聊《ぶりょう》に苦しんだあげく、湯に浸《つか》りすぎて熱病を患《わずら》ったが、時々|枕頭《まくらもと》へ遊びに来る大阪下りの芸者と口を利《き》くほか、一人も話し相手がなかった。
「どういうのがえいのんや。私が気に入りそうなのを見立てて上げるよって……東京ものは蓮葉《はすは》で世帯持ちが下手《へた》やと言うやないか。」笹村が湯に中《あた》って蒼《あお》い顔をして一トまず大阪の兄のところへ引き揚げて来たとき、留守の間に襟垢《えりあか》のこびりついた小袖《こそで》や、袖口の切れかかった襦袢《じゅばん》などをきちんと仕立て直しておいてくれた嫂《あによめ》はこう言って、早く世帯を持つように勧めた。
 笹村はもう道頓堀《どうとんぼり》にも飽いていた。せせっこましい大阪の町も厭《いと》わしいようで、じきに帰り支度をしようとしたが、長く離れていた東京の土を久しぶりで踏むのが楽しいようでもあり、何だか不安のようでもあった。帰路立ち寄った京都では、旧友がその愛した女と結婚して持った楽しげな家庭ぶりをも見せられた。
「我々の仲間では君一人が取り残されているばかりじゃないか。」
 友達は長煙管《ながぎせる》に煙草《たばこ》をつめながら、静かな綺麗《きれい》な二階の書斎で、温かそうな大ぶりな厚い蒲団《ふとん》の
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