うえに坐って、何やら蒔絵《まきえ》をしてある自分持ちの莨盆《たばこぼん》を引き寄せた。そこからは紫だったような東山の円《まる》ッこい背《せなか》が見られた。
「京の舞妓《まいこ》だけは一見しておきたまえ。」友はそれから、新樹の蔭に一片二片《ひとひらふたひら》ずつ残った桜の散るのを眺めながら、言いかけたが、笹村の余裕のない心には、京都というものの匂《にお》いを嗅《か》いでいる隙《ひま》すらなかった。それで二人一緒に家へ還《かえ》ると、妻君が敷いてくれた寝所《ねどこ》へ入って、酔いのさめた寂しい頭を枕につけた。
 東京で家を持つまで、笹村は三、四年住み古した旧《もと》の下宿にいた。下宿では古机や本箱がまた物置部屋から取り出されて、口金の錆《さ》びたようなランプが、また毎晩彼の目の前に置かれた。坐りつけた二階のその窓先には楓《かえで》の青葉が初夏の風に戦《そよ》いでいた。
 笹村は行きがかり上、これまで係《たずさ》わっていた仕事を、ようやく真面目に考えるような心持になっていた。机のうえには、新しい外国の作が置かれ、新刊の雑誌なども散らかっていた。彼は買いつけのある大きな紙屋の前に立って、しばらく忘られていた原稿紙を買うと、また新しくその匂いをかぎしめた。
 けれど、ざらざらするような下宿の部屋に落ち着いていられなかった笹村は、晩飯の膳《ぜん》を運ぶ女中の草履《ぞうり》の音が、廊下にばたばたするころになると、いらいらするような心持で、ふらりと下宿を出て行った。笹村は、大抵これまで行きつけたような場所へ向いて行ったが、どこへ行っても、以前のような興味を見出さなかった。始終遊びつけた家では、相手の女が二月も以前にそこを出て、根岸《ねぎし》の方に世帯を持っていた。笹村はがらんとしたその楼《うち》の段梯子《だんばしご》を踏むのが慵《ものう》げであった。他の女が占めているその部屋へ入って、長火鉢《ながひばち》の傍へ坐ってみても、なつかしいような気もしないのに失望した。聞きなれたこの里の唄《うた》や、廊下を歩く女の草履の音を聞いても、心に何の響きも与えられなかった。
「山田君が今度建てた家の一つへ、是非君に入って頂きたいんだがね。」と友達に勧められた時、笹村は悦《よろこ》んで承諾した。

     二

 その家は、笹村が少年時代の学友であって、頭が悪いのでそのころまでも大学に籍をおい
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