に居合わしたくないような心持もしていたので、しばらく顔を出さなかった代診のところへ寄って見た。笹村はいい加減に翫弄《おもちゃ》にされているように思って、三、四月ごろ注射を五本ばかり試みたきり罷《や》めていたが、やはりそれが不安心であった。
「このごろはちっとは快《い》いかね。」
 医師《いしゃ》はビールに酔った顔を団扇《うちわ》で煽《あお》ぎながら言った。
 笹村は今夜産れる子供を、すぐ引き取ってもらえるような家はあるまいかと、その相談を持ち出した。稚い時分近所同士であったこの男には、笹村は何事も打ち明けることを憚《はばか》らなかった。
「ないことはない。けど後で後悔するぞ。」と、医師はある女とのなかに出来た、自分の子を里にやっておいた経験などを話して聞かした。
「後のことなど、今考えていられないんだからね。」
 笹村はその心当りの家の様子が詳しく知りたかった。七人目で、後妻の腹から産れた子を、ある在方《ざいかた》へくれる話を取り決めて、先方の親爺《おやじ》がほくほく引き取りに来た時、※[#「兀+王」、第3水準1−47−62、211−上−17]弱《ひよわ》そうな乳呑《ちの》み児《ご》を手放しかねて涙脆《なみだもろ》い父親が泣いたということを、母親からかつて聞かされて、あまりいい気持がしなかった。それをふと笹村は思い浮べた。
「まア産れてからにする方がいい。」
 医師は相当に楽に暮している先方の老人夫婦の身のうえを話してから言った。
 笹村は丸薬を少し貰って、そこを出た。
 家へ帰ると、小さい家のなかはひっそりしていた。母親は暗い片蔭で、お産襤褸《さんぼろ》を出して見ていたが、傍にお銀も脱脂綿や油紙のようなものを整えていた。
 おそろしい高い畳つきの下駄をはいて、産婆が間もなくやって来た。笹村は四畳半の方に引っ込んで寝転んでいた。
「大丈夫大船に乗った気でおいでなさい。私はこれまで何千人と手をかけているけれど、一人でも失敗《しくじ》ったという例《ためし》があったら、お目にかかりません。安心しておいでなさいよ。」産婆は喋々《ちょうちょう》と自分の腕前を矜《ほこ》った。
 お産は明家《あきや》の方ですることにした。母親は一人で蒲団を運んだり、産婆の食べるようなものを見繕ったりして、裏から出たり入ったりしていた。笹村も一、二度傍へ行って見た。
 産気が次第について来た。お銀
前へ 次へ
全124ページ中42ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング