、どれも気に向かなかった。
 そして歩いていると、二枚小袖に羽織は重いくらい、陽気が暖かくなって来た。垣根《かきね》の多い静かな町には、柳の芽がすいすい伸び出して、梅の咲いているところなどもあった。空も深々と碧《あお》み渡っていた。笹村はそうした小石川の奥の方を一わたり見て歩いたが、友人の家を出て、普通の貸家へ移る時の生活の不安を考えると、やはり居昵《いなじ》んだ場所を離れたくないような気もしていた。
「今日はたしか先生の入院する日だ。」
 笹村はある日の午後、家を捜しに出て、途中からふと思い出したように引き返して来た。その日は薄曇りのした気の重い日であった。青木堂でラヘルを二函《ふたはこ》紙に包んでもらって、大学病院の方へ入って行くと、蕾《つぼみ》の固い桜の片側に植わった人道に、薄日が照ったり消えたりしていた。笹村は自分のことにかまけて、しばらくM先生の閾《しきい》もまたがずにいた。先生と笹村との間には、時々隔りの出来ることがあった。
 M先生は、笹村の胃がようやく回復しかけて来るころから、同じ病気に悩まされるようになった。
「今の若さで、そう薬ばかり飲んでるようじゃ心細いね。うまいものも歯で嚼《か》んで食うようじゃ、とても駄目だよ。」
 茶一つ口にしないで、始終曇った顔をしている笹村に、先生は元気らしく言って、生きがいのない病躯《びょうく》を嘲《あざけ》っていたが、先生の唯一の幸福であった口腹の欲も、そのころから、少しずつ裏切られて来た。
 定められた病室へ入って、大分待っていると、やがて扉を開けて長い廊下を覗《のぞ》く笹村の目に、丈の高い先生の姿が入口の方から見えた。O氏とI氏とが、その後から手周りの道具や包みのようなものを提げて入って来た。
 先生の目には深い不安の色が潜んでいるようであったが、思いがけない笹村の姿をここに見つけたのは、心嬉しそうであった。

     二十一

 腕車《くるま》からじきに雪沓《せった》ばきで上って来たM先生は、浅い味噌濾《みそこ》し帽子を冠ったまま、疲れた体を壁に倚りかかってしばらく椅子に腰かけてみたり、真中の寝台に肱《ひじ》を持たせなどして、初めて自分が意想外の運命で、入るように定められた冷たい病室の厭《いと》わしさを紛らそうとしているように見えた。
「いわば客を入れるんですから、病室ももっとどうかしたらよさそうに思います
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