な暮の町へ出て見た。そしてふと思いついて、女のために肩掛けを一つ買って戻った。
 お銀は嬉しそうにそれを拡げて見ると笑い出した。
「私前に持っていたのは、もっと大きくて光沢《つや》がありましたよ。それにコートだって持ってたんですけれど……叔父さんが病気してから、皆|亡《な》くしてしまいましたわ。」
「そうかい。お前贅沢を言っちゃいかんよ。入《い》らなけア田舎へ送ろう。」
 笹村は気色《けしき》をかえた。

     二十

 春になってから笹村は時々思い立っては引き移るべき貸家を見て行《ある》いた。お銀の体をおくのに、この家の間取りの不適当なことも一つの原因であった。茶の間から通うようになっている厠《かわや》へ客の起つごとに、お銀は物蔭へ隠れていなければならぬ場合がたびたびあった。そのころお銀は京橋の家へ行くことをすっかり思い止まっていた。二階は危いというのも一つの口実であったが、ここを離れてしまえば、後はどうなって行くかという不安が、日増しに初めの決心を鈍らせた。
「……それに私だって、余所《よそ》へ出るとなれば手廻りの世帯道具くらい少しは用意しなけア厭ですもの。いくら何でもあまり見すぼらしいことしてお産をするのは心細うござんすから。」
 お銀のこのごろの心には、そこへ身のうえの相談に行ったことすら、軽挙《かるはずみ》のように思われて来た。
「あんな窮屈な二階|住居《ずまい》で、お産が軽ければようござんすけれど、何しろ初産のことですから、どんな間違いがないとも限りませんもの。」
「こればかりは重いにも軽いにもきりがないんですからね。」と、母親も傍から口を利いた。
 笹村は黙って火鉢に倚《よ》りかかりながら、まじまじと煙草を喫《ふか》していた。麻の葉の白くぬかれた赤いメリンスの前掛けの紐《ひも》を結《ゆわ》えているお銀の腹のめっきり大きくなって来たのが目についた。水気をもったような顔も、白蝋《はくろう》のように透き徹《とお》って見えた。
「むやみなことをして、万一のことでもあっては、田舎にいるこれの父親や親類のものに私がいいわけがないようなわけでござんすでね。」
 そんなことから、笹村は家を捜すことに決めさせられた。
 笹村はずッと奥まった方を捜しに出て行った。その辺にはかなり手広な空家がぼつぼつ目に着いたが、周《まわ》りが汚かったり、間取りが思わしくなかったりして
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