も低くって厭なところなんです。お産の時にはあなたも来て下さらないと、あんなところで私心細い。」
 笹村は黙っていた。お銀は張合いがなさそうに口を噤《つぐ》んだ。
 正月に着るものを、お銀はその後また四ツ谷から運んで来た行李の中から引っ張り出して、時々母親と一緒に、茶の室《ま》で針を持っていた。この前に片づくまでに、少しばかりあったものも皆|亡《な》くして行李を開けて見てもちぐはぐのものばかりで心淋しかった。
 気がつまって来ると、煙草の煙の籠ったなかに、筆を執っている笹村の傍へ来て、往来向きの窓を開けて外を眺めた。門々にはもう笹たけが立って、向うの酒屋では積み樽《だる》などをして景気を添えていた。兜《かぶと》をきめている労働者の姿なども、暮らしく見られた。熊谷在《くまがやざい》から嫁入って来たという、鬼のような顔をしたそこの内儀さんも、大きな腹をして、帳場へ来ては坐り込んでいた。

     十九

 笹村は、少し手に入った金で、手詰りのおりにお銀が余所《よそ》から借りて来てくれた金を返さしたり、質物を幾口か整理してもらったりして、残った金で蒲団皮を買いに、お銀と一緒に家を出た。「私たちのは綿が硬くて、とても駄目ですから、今度お金が入ったら、払いの方は少しぐらい延ばしても蒲団を拵えておおきなさいよ。」と、笹村はよくお銀に言われた。
「十年もあんな蒲団に包《くる》まっているなんて、痩《や》せッぽちのくせによく辛抱が出来たもんですね。」
 初めて汚い笹村の寝床を延べた時のことが、また言い出された。
「僕はあまりふかふかした蒲団は気味がわるい。」
 笹村は笑っていたが、それを言われるたびに、自分では気もつかずに過して来た、長いあいだ満足に足腰を伸ばしたこともない、いきなりな生活が追想《おもいだ》された。そしてやはりその蒲団になつかしみが残っていた。安机、古火鉢、それにもその時々の忘れがたい思い出が刻まれてあった。そのべとべとになった蒲団も、今はこの人たちの手に引つ剥《ぺ》がされて、襤褸屑《ぼろくず》のなかへ突っ込まれることになった。
 通りまで来ると、雨がぽつりぽつり落ちて来た。何か話して歩いているうちに、ふと笹村の気が渝《かわ》って来た。
「お前は先へお帰り。」
 笹村はずんずん行《ある》き出した。
「それじゃ蒲団地は買わなくてもいいの。」
 女は惘《あき》れて立ってい
前へ 次へ
全124ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング