安心していらっしゃい。」
 しかしどうしても妊娠としかおもわれないところがあった。食べ物の工合も変って来たし、飯を食べると、後から嘔吐《はきけ》を催すことも間々あった。母親に糺《ただ》してみると、母親もどちらとも決しかねて、首を傾《かし》げていた。
「今のうちなら、どうかならんこともなさそうだがね。」
 また一ト苦労増して来た笹村は、まだ十分それを信ずる気になれなかった。弱い自分の体で、子が出来るなどということはほとんど不思議なようであった。
「そんなわけはないがな。もしそうだったとしても、己は知らない。」などと言って笑っていた。女の操行を疑うような、口吻《くちぶり》も時々|洩《も》れた。
「私はこんながらがらした性分ですけれど、そんな浮気じゃありませんよ。そんなことがあってごらんなさい、いくら私がずうずうしいたって一日もこの家にいられるもんじゃありませんよ。」お銀も半分真面目で言った。
「お前の兄さん兄さんと言っている、その親類の医者に診《み》てもらったらどうだ。」
「そんなことが出来るもんですか。あすこのお婆さんと来たら、それこそ口喧《くちやかま》しいんですから。」
 お銀は三人の子供を、それぞれ医師に仕揚げたその老人の噂《うわさ》をしはじめた。
 こんな話が、二人顔を突き合わすと、火鉢の側で繰り返された。火鉢には新しい藁灰《わらばい》などが入れられて、机の端には猪口《ちょく》や蓋物《ふたもの》がおかれてあった。笹村は夜が更けると、ほんの三、四杯だけれど、時々酒を飲みたくなるのが癖であった。
「そんなに気にしなくとも、いよいよ妊娠となれば、私がうまくそッと産んじまいますよ。知った人もありますから、そこの二階でもかりて……。」お銀は言い出した。
「叔父さんが世話をした人ですから、事情《わけ》を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。あなたからお鳥目《あし》さえ少し頂ければね。」
「そんなところがあるなら、今のうちそこへ行っているんだね。」
 お銀は京橋にいるその人のことを、いろいろ話して聞かした。叔父が盛んに切って廻していたころのことが、それに連れてまた言い出された。
「その時分、あなたはどこに何をしていたでしょう。」
 お銀は自分の十六、七のころを追憶《おもいだ》しながら、水々した目でランプを瞶《みつ》めていた。
「真実《ほんと》に不思議なようなも
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