85、191−下−11]《みは》って二人の顔を見比べた。
おどおどしたような目を伏せて、うつむいて黙っていたお銀は、銚子が一本あくと、すぐに起って茶の室《ま》の方へ出て行った。そしていくら呼んでもそれきり顔を見せなかった。
何も彼も忘れるくらいに酔って、笹村は寝床の上にぐッたり横たわっていた。目を開いてみると、傍へ来て坐っている女の青白い顔が、薄暗いランプの灯影に寂しく見えた。
「……ほんとに済みませんでした。これから気をつけますから、どうか堪忍して下さい。」お銀の呟《つぶや》く声が、時々耳元に聞えた。
笹村は冷たい濡れ手拭でどきどきする心臓を冷やしていた。
十四
四ツ谷の親類に預けてあった蒲団や鏡台のようなものを、お銀が腕車《くるま》に積んで持ち込んで来たのは、もう袷《あわせ》に羽織を着るころであった。町にはそっちこっちに、安普請の貸家が立ち並んで、俄仕立《にわかじた》ての蕎麦屋《そばや》や天麩羅屋《てんぷらや》なども出来ていた。
お銀は萌黄《もえぎ》の大きな風呂敷包みを夜六畳の方へ持ち込むと、四ツ谷で聞いて来たといって、先に縁づいていた家の、その後の紛擾《ごたごた》などを話して蒼《あお》くなっていた。お銀が逃げて来てからも、始終跡を追っかけまわしていたそこの子息《むすこ》が、このごろ刀でとかく折合いの悪い継母を斬《き》りつけたとかいう話であった。
その話には笹村も驚きの耳を聳《そばだ》てた。
「係り合いにでもなるといけないから、うっかりここへ来ちゃいけないなんてね、お蝶《ちょう》さんに私|逐《お》ん出されるようにして来たんですよ。」
「へえ。」と、笹村は呆《あき》れた目をして女の顔を眺めていた。
「私おっかないから、もう外へも出ないでおこう。この間暗い晩に菊坂で摺《す》れ違ったのは、たしかに栄ですよ。」
傍で母親は、包みのなかから、お銀の不断着などを取り出して見ていた。外はざあざあ雨が降って、家のなかもじめじめしていた。
「私は顔色が大変悪いって、そうですか。」と、お銀は気にして訊《き》き出した。
お銀はこの月へ入ってから、時々腹を抑《おさ》えて独りで考えているのであった。そして、
「私妊娠ですよ。」と笑いながら言っていたが、しばらくすると、またそれを打ち消して、
「冷え性ですから、私にはどうしたって子供の出来る気遣いはないんです。
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