「遊びにお出でなさいな。もし兄さんがいなかったら。」と、妹が声かけて別れて行くのを、笹村は暗い窓口から聞いていた。
怜悧《れいり》な深山が、いつかお銀の相談相手になっているように思えた。
九
笹村との間隔《へだたり》が、だんだん遠くなってから深山は遠くへ越して行った。そのころは一時潤うていた深山の生活状態がまた寂しくなっていたので、家主のK―へやるべきものも一時そのまま残して行くことになった。後から笹村のところへ掛合いに来る商人も一人二人あった。
「お鈴さんから聞いてはいたけれど、随分めずらしい人ですね。」と、お銀が言っていたが、笹村も初めのように推奨する代りに、すべてを悪い方へ解釈したかった。深山に連絡している周囲が、女のことについて、いろいろに自分を批評し合っているその声が始終耳に蔽《お》っ被《かぶ》さっているようで、暗い影が頭に絡《まつ》わりついていた。
「あなたのやり方が拙《まず》いんですもの、深山さんと間《なか》たがいなどしなくたってよかったのに……。」と、女は笹村の一刻なのに飽き足りなかった。
「いっそいさぎよく結婚しようか。」
お銀は支度のことを、なにかと言い出した。笹村もノートに一々書きつけて、費用などの計算までして見た。
「叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清《こせい》の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。」
「東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。」
「それでも、自分はまだ盛り返すつもりでいますよ。今ごろは死んだかも知れませんわ。途中で宿屋へ担《かつ》ぎ込まれたくらいですもの。」お銀は叔父の死よりも、亡《な》くした自分の着物が惜しまれた。
「私横浜の叔母のところへ行けば、少しは相談に乗ってくれますよ。」お銀は燥《はしゃ》いだような調子で、披露《ひろう》のことなどをいろいろに考えていた。
笹村は、旅行中羽織など新調して、湯治場へ貽《おく》ってくれた大阪の嫂に土産《みやげ》にするつもりで、九州にいるその嫂の叔母から譲り受けて来て、そのまま鞄《かばん》の底に潜《ひそ》めて来た珊瑚珠《さんごじゅ》の入ったサックを、机の抽斗《ひきだし》から出してお銀にやった。
「どうしてあなたが
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