立ち並んだ町を、あちらへ曲りこちらへくねりしているうちに、やがて見覚えのある大通りの町が目の前に現われた。そんな通りを幾個《いくつ》も通り過ぎて、腕車《くるま》は石垣や土塀《どべい》の建て続いた寂しい屋敷町の方へ入って行った。雲の重く垂《た》れ下った空から、雨がしぶしぶ落ちて来た。暗い木立ちや垣根の隙から、まだ灯影が洩れていて、静かな町はまだ全く寝静まっていなかった。
 その晩笹村は、広い二階の一室で、二、三杯の酒に酔って、物を食べたり、母や姉たちと話に耽《ふけ》ったりして、鶏の鳴くまで起きていた。昔風の広い式台のところまで出迎えた母親や姉は、そうして話しているうちに、初めて目に映った時の汚さがようやくとれて来たが、それでも顔は皆変っていた。長いあいだの気苦労の多い生活と闘ったり、もがいたりして来た痕《あと》が、いたましいほどこの女たちの老《ふ》けた面に現われていた。
 翌朝笹村は、汽車のなかで舞い込んだ左の目の石炭滓《せきたんかす》を取ってもらいに、近所の医師《いしゃ》を訪ねた。中学に通っている時分、軽い熱病にかかったり、脳脊髄《のうせきずい》に痛みを覚えたりすると、ここへ駈けつけて来たが、家はその時の様子と少しも変りがなかった。髪の薄かった医師も、それより以上|禿《は》げてもいないのが不思議のようであった。
 笹村は二、三日、姉たちの家や、兄の養家先などを廻ってみたが、町にはどこを探《たず》ねても、昔の友人らしいものは一人もいなかった。
 忘られていた食べ物の味が舌に昵《なじ》んで来るころには、笹村の心にはまた東京のことが想い出されていた。そして久しぶりで逢うわが子の傍へ寄って、手紙ではとても言い尽せない周囲の紛糾《こぐらか》った事情や、自分の生活状態について、誰に打ちあけようもない老人の弱い心持を聞いてもらえるような機会を捕えようとしている老母の沈んだ冷たい目からのがれるように、笹村はいつも落着きなく外を出歩いてばかりいた。

     四十八

 笹村は多勢の少《わか》い甥《おい》や姪《めい》と、一人の義兄とに見送られて、その土地を離れようとする間際に、同じ血と血の流れあった母親の心臓の弱い鼓動や、低い歔欷《すすりなき》の声をはじめて聞くような気がした。するすると停車場の構内から、初夏の日影の行き渡った広い野中にすべり出た汽車の窓際へ寄せている笹村の曇った顔
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