母さんや姉さんによく思われていないに決まっている。」と、時々それを言い出していたお銀は、この機会に出来るだけの好意を示すことを忘れなかった。
新しく仕立てたり、仕立て直したりした幾色かの着物の上に、お銀は下谷から借りて来た欽一《きんいち》の兵児帯《へこおび》なども取り揃えた。
「角帯もいいけれど、これも持っておいでなさいよ。」
欽一はそのころ、その弟と前後して、軍医として戦地へ渡った。
四十七
郷里へ帰って行った笹村は、長くそこに留まっていられなかった。大きな旧城下の荒れた屋敷町の一つに育って来た笹村は、長いあいだ自分の生い立って来た土地の匂いを思い出す隙もないほど、目が始終前の方へ嚮《む》いていたが、そのころ時々幼い折の惨めな自分の姿や、陰鬱《いんうつ》な周囲の空気を振り顧《かえ》るようなことがあった。姉に手をひかれてはじめて歩いてみた珍しい賑やかな町や、近所の女の友達と一緒に蟋蟀《こおろぎ》を取ってあるいた寂しい石垣下の広い空地《あきち》の叢《くさむら》の香、母親の使いで草履の音を忍ばせて、恐る恐る通りぬけて行った、男の友達の頑張っている木蔭の多い、じめじめした細い横町、懶《なま》けものの友達と一緒に、厭な学校の課業のあいだを寝転《ねころ》んでいた公園の蕭《しめや》かな森蔭の芝生――日に日に育って行く正一を見るにつけて、笹村はここ十年来の奮闘に疲れた頭に、しみじみそこのなつかしい空気が嗅ぎしめて見たいような気がした。荒れている父親の墓の前で、今一度|敬虔《けいけん》なそのころの、やさしい心持を味わってみたいと考えた。
そんなことを胸に描いていた笹村は、郊外に建てられた暗い夜のステーションへ降りて行くと、すぐにがさがさした、荒《さび》れたその町に包まれた自分の青年時代の厭な記憶に、面《おもて》を背《そむ》けたいような心持になった。
黙って粗雑な木造の階段から、でこぼこした広い土間に降りて行く群集の下駄の音や、田圃面《たんぼづら》から闇《やみ》を流れて来る一種の臭気、ステーション前の広場の柳の蔭に透して見られる、仮小屋めいた薄暗い旅籠屋《はたごや》、大阪風に赤い提灯《ちょうちん》などを出した両側の飲食店――その間をのろのろした腕車《くるま》で、石高な道を揺られて行く笹村は、はじめて来る新開の町をでも見るような気がした。
檐《のき》の低い家の
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