で逃げたくらいなんだし、磯谷とは三年越しの関係ですけれど、先は学生だし、私は叔父の側《そば》にいるしするもんだから、養子になるという約束ばかりで、そうたびたび逢ってやしませんわ。」
四十五
笹村の口から磯谷のことをいろいろに聞かれるのは、お銀にも悪い気持はしなかったが、その話も二人にとって、次第に初めほどの興味がなくなってしまった。お銀と磯谷との関係と磯谷の人物とがはっきり解って来れば来るほど、笹村の女に対する好奇心は薄らいで来たが、お銀の胸にもその時々の淡々しい夢はだんだん色が剥《は》げて来た。それでも時々笹村に身を投げかけて来るようなお銀の態度には、破れた恋に対する追憶《おもいで》の情が見えぬでもなかった。その時の女は、そう想像して見ると、笹村の目に美しく映った。
「でも、あの女から、磯谷が今どうしているかということぐらいは、お前も聞いたろう。」
笹村はその男が持っていたという銀煙管《ぎんぎせる》で莨をふかしながら聞いたが、お銀にしては、それは笹村の前に話すほどのことでもないらしかった。
「やはりぶらぶらしているっていう話ですがね。」
お銀の目には、以前男のことを話す時見せたような耀《かがや》きも熱情の影も見られなかった。
「お前の胸には、もうそんな火は消えてしまったんだろうか。」
笹村はもう一度、その余燼《よじん》を掻き廻して見たいような気がしていた。
「いつまでそんなことを思っているものですか。思っているくらいなら、こうしちゃいませんよ。それに一度でも逢っていれば、それを隠しているなんてことは、とても出来るもんじゃありませんよ。」
妊娠ということが、日が経つにつれてだんだん確実になって来た。
「どうしてもあなたには子種があるんですね。だって、深山さんの妹さんがあなたの体を見て、そう言ったっていうじゃありませんか。」と、お銀は笹村の顔を見て笑った。
「でもいいわ。一人じゃ子供が可哀そうだから、三人くらいまではいいですよ。」
笹村はそのころから、少しずつ金の融通が利くようになっていた。新しい本屋から、原稿を貰いに来る向きも一、二軒あったし、しまっておいた新聞の古も、いつとはなしに出て行った。それだけ暮しも初めほど手詰りでなくなった。笹村は下町の方から帰って来ると、きっと買いつけの翫具屋《おもちゃや》へ寄って、正一のために変った翫具を見つ
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