から帰って来た笹村の顔は、疲れきっていた。
「私|腕車《くるま》で駈けつけたけれど、お葬式《とむらい》が今そこへ行ったという後……。」と、お銀は婦人たちの様子などを聞きたがった。
 笹村は晴れがましくもない自分の姿を、誰にも見られたいとは思わなかった。

     三十八

 町内の頭《かしら》の手で、笹竹がまた門に立てられた。笹村はかさかさと北風に鳴るその音を耳にしながら、急《せ》き立てられるような心持で、田舎へ送る長い原稿を書いていた。笹村の肩には、去年の暮よりか一層重い荷がかかっていた。生活もいくらか複雑になっていた。そしてその原稿を抱いて、朝|夙《はや》く麹町《こうじまち》の方にいるある仲介者の家を訪ねたのは、町にすっかり春の装いが出来たころであった。久しく一室《ひとま》に閉じ籠ってばかりいた笹村の目には、忙しい暮の町は何となく心持よかったが、持っている原稿の成行きは心元なかった。笹村はこれまでにも、幾度となくこんな場合を経験していた。そして天分の薄い自分の寂しい身の周《まわ》りを見廻さないわけに行かなかった。
「これが外れると大変ね。」
 その日双方の思惑《おもわく》ちがいで、要領を得ずに帰って来た笹村の傍へ来てお銀は心配そうに言い出した。
 赤児が持っている一種の厭な臭《にお》いのよやくぬけて来た正一を、笹村は時々机の傍へ抱き出して来て、弄《いじ》りものにした。そして終《しま》いには泣かした。
「可哀そうに、あなたあまりしつこいから……。」
 お銀は抓《つね》られたり、噛《か》まれたりする子供を抱き取りながら、乳房を口に当てがった。
 思い立って人の少い朝湯へ連れて行くこともあった。するとその後からお銀がタオルを持って、揚げに来た。
「お父さんは赤ン坊を扱うのが上手ですよ。」
 お銀は帰って来ると母親に話した。
 赤ン坊はこの町の裏にいる、ある貧民の娘の背《せなか》に負《おぶ》われて、近所の寺の境内や、日当りのよい駄菓子屋の店頭《みせさき》へ連れて行かれたが、外で賺《すか》しに菓子などを口へ入れられて、腹を壊すことも間々あった。お銀は困っているその子守の家族の口を、一人でも減らすのを功徳のように考えていたが、それも長くは続かなかった。
「こんな寒い砂埃のなかへ、病気をしてるものを出しておいちゃいけない。」
 余所《よそ》から帰って来た笹村は、骨張った子守
前へ 次へ
全124ページ中61ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング