うか。」
「家族の人たちを失望させたくないために、わざとああした態度を取っていられるようにも見えるね。しかし病人の頭は案外暗いからね。」
 門を出てからO氏と笹村とはこんな話をしながら行《ある》いていた。
 初めて惨《いた》ましい診断を受けたおりの先生に対した時の絶望の心持は、二人の胸に少しずつ萎《な》やされていた。
「もう癌《がん》は胃の方ばかりじゃないそうだ。咽喉《のど》の辺へも来ているということだ。」
 こんな私語《ささやき》が、誰からともなく皆の耳に伝わったころには、笹村も先生と話をするような機会があまりなかった。
 医師の発言で使いや電報がそれぞれ近親の人たちの家へ差し向けられたのは、それから間もないある夜の深更であった。
 高く積みあげられた病床の周《まわ》りへ、人々はぽつぽつ寄って来た。
「こら、こんなだ。」と、心臓の悪いある画伯が、真先に駈け着けて来ると、蒼い顔をしてせいせい息をはずませながら入って来た。
 昏睡《こんすい》状態にあった患者が、朝注射で蘇《よみがえ》ったように※[#「目+爭」、第3水準1−88−85、226−下−19]《みひら》いた目に、取り捲《ま》いている多勢の人の顔がふと映った。部屋にはしめやかな不安の空気が漲《みなぎ》っていた。静かに段梯子を上り下りする跫音《あしおと》も聞えた。そして、それが患者におそろしい暗示を与えた。

     三十七

 一時劇しい興奮の状態にあった頭が、少しずつ鎮《しず》まって来ると、先生は時々近親の人たちと語《ことば》を交しなどした。その調子は常時《いつも》と大した変りはなかった。
 興奮――むしろ激昂《げっこう》した時の先生の頭脳《あたま》はいたましいほど調子が混乱していた。死の切迫して来た肉体の苦痛に堪えかねたのか、それとも脱れることの出来ぬ冷たい運命の手を駄々ッ子のように憤ったのか、啜《すす》りあげるような声でいろいろのことが叫び出された。
 苦痛が薄らいで来ると、先生の様子は平調に復《かえ》った。時々うとうとと昏睡状態に陥ちることすらあった。長いあいだの看護に疲れた夫人を湯治につれて行ってやってくれとか、死骸《しがい》を医学界のために解剖に附してくれとかいうようなことが、ぽつぽつ言い出された。
「死んでしまえば痛くもなかろう。」先生はこうも言って、淋しく微笑《ほほえ》んだ。
「みんなまずい顔
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