たことではあったが、昔二人が狎《な》れ合った時のことが、笹村にも想像され得るようであった。

     三十六

 M先生が病苦を忘れるために折々試みていたモルヒネ注射も、秋のころは不断のようになっていた。注射が効力をもっている間の先生の頭脳《あたま》は、頸垂《うなだ》れた草花が夜露に霑《うるお》ったようなものであった。
「何ともいえぬ微妙な心持だ。」と言って、先生も限られたその時間の消えて行くのを惜しみ惜しみした。
 先生の仕事のもう揚《あが》っている笹村は、慌忙《あわただ》しいような心持で、自分の創作に執りかかっていた筆をおいて、時々先生の様子を見に行った。衆《みんな》は交替に、寂しい病室に夜のお伽《とぎ》をすることになっていた。先生の発言で、めいめい食べ物を持ち寄って、それを拡げながら夜すがら酒をちびちび飲んでいることもあった。お銀は笹村のために、鶏と松茸《まつたけ》などを蓋物に盛った。
「うまいものを食っているね。」などと、先生は戯れた。
 ある日も笹村は、八時ごろまで書いていて、それから思い出して出かけた。雨風のかなり劇しい晩で、町には人通りも少かった。
 床ずれの痛い寝所《ねどこ》にも飽いて、しばらく安楽椅子にかかっている先生の面《おもて》はすっかり変っていた。浅黒かった皮膚の色が、蚕児《かいこ》のような蒼白さをもって、じっと目を瞑《つむ》っている時は、石像のように気高く見えた。髪も短く刈り込まれてあった。先生が睡りに沈んで来ると、衆《みんな》は次の室へ引き揚げた。来合わせていた某《なにがし》の画家が、そこにあった画仙紙《がせんし》などを拡げて、とぼけた漫画の筆を揮《ふる》った。先生や皆の似顔なども描かれた。俳句や狂句のようなものも、思い思いに書きつけられた。夜が更けるにつれて、興も深くなって来た。その笑い声が、ふと先生の睡りをさました。
「あーッ。」と長い溜息が、持て余しているような先生の躯《からだ》から漏《も》れて来た。じろりと皆の顔を見る目のうちにも、包みきれぬ不安があった。
「どれお見せ。」
 いらいらしたような先生の顔には、淋しい微笑の影がさして来た。そして自身にも筆を取って、句案に耽《ふけ》った。
 夜があけてから、一同はそこを引き揚げた。山の手の町には、柿の葉などが道に落ち散って、生暖かい風に青臭い匂いがあった。
「先生は自覚しているんだろ
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