お今が荷物を持ち込みなどした。浅井はまだ帰っていなかった。
「このごろは、それはお帰りが遅いのよ。だから淋しくて淋しくてしようがなかったの。ねえ静《しい》ちゃん。」
 お今は今まで台所にいた、白いエプロンをかけたまま、散らかった雑誌などを片着けていた。静子は含羞《はにか》んだような顔をして、お増が鞄から出す、土産《みやげ》ものの寄木細工の小さい鏡台などを弄《いじ》っていた。
「へえ、いいもの貰ったわね。」
 お今もそこへ顔を寄せて行ったが、冬になってから、皮膚が一層白くなっていた。
 お増はもの足りなさそうな顔をして、火鉢の傍を離れると、箪笥などの据わった奥の間へ入って見たり、二階へあがって、人気のない座敷の電気を捻《ひね》って見たりした。押入れをあけると、そこに友禅縮緬《ゆうぜんちりめん》の夜具の肩当てや蒲団をくるんだ真白の敷布の色などが目についた。
「何も変ったことはなかったの。」
 お増は階下《した》で着更えをすると、埃《ほこり》っぽい顔を洗ったり、袋から出した懐中鏡で、気持のわるい頭髪《あたま》に櫛を入れたりしていた。
「え、別に……姉さんがいないと、家はそれはひっそりしたものよ。それにどうしたって兄さんがお留守がちでしょう。」
「浮気しているのよきっと。鬼のいない間《ま》にと思って。」
 お増は淋しく笑った。そして脱棄てや着替えを畳みつけて、奥へしまい込もうとするお今に、「それはそうやっておいて頂戴。一遍干すから。」と声かけた。
 湯の熱の体にさめないようなお増は、茶漬で晩飯をすますと、まだ汽車に揺られているような体を、少し座蒲団のうえに横になって、そこにあった留守中の小使い帳や、書附けなどを眺めていた。
「誰も来なかったの。」
「ええどなたも。」とお今は箸を休めて、考えるような目色をして、「そうそう、根岸のあの神さんが二度ばかり来てよ。何だかあすこに事件が持ち上ったようなんですよ。」
「へえ、そう。」と、お増は顔をあげたが、お今は赤い顔をして、笑ってばかりいて、後を話さなかった。
「おかしな子だよ、お前さんは。」
 お増はじれったそうに呟いた。
「姉さん、男って皆なそんなものでしょうか。」
 お今は真面目な顔をこっちへ向けたが、じきに横を向いて噴笑《ふきだ》してしまった。
「何がさ。」
「だっておかしいんですもの。」お今は、また顔に袖を当てて笑いだした。
「いやだね。この子は、色気がついたんだよ。」お増は眉をしかめた。
「嘘よ。」
「旦那に、何か揶揄《からか》われたんだろ。」
 お増は苛《いじ》めて見たいような気がしたが、お今のけろりとしているのが、張合いがなかった。

     三十四

 一時ごろに、浅井が腕車《くるま》で帰って来るまで、お増は臥床《ねどこ》に横になったり、起きて坐ったりして待っていた。時々下の座敷へも降りて見た。つい先刻《さき》ほどまで、このごろ静子と一緒に寝ることになっているお今が、枕頭《まくらもと》に明りをつけて、何やら読んでいたのであったが、それもそのころにはもう深い眠りに陥ちていた。
 宵にお今が話しかけたことを、お増は二度も訊いて見たが、ふいと子供らしい無邪気さから、大人のような取り澄ました態度に変る癖のあるお今は、「つまらないことなの。」と言ったきりで、何にも話さなかった。お今は一通り家政科に通じてから、帰って行くことになっている、自分の田舎で生活したものか、それとも好きな東京で暮したものかと、時々それをお増などに相談するのであったが、結婚とか独立生活とかいうことについても、自分自身の心持がかなり混乱しているらしかった。
「旦那に相談して、いいお婿さんを世話してもらったらいいじゃないの。」
 お増はそのたびに、無造作にそう言った。
「伎倆《はたらき》のある商人か、会社員がいいよ。男ぶりなどはどうでもいいのよ。」
 お増はそうも言ったが、最初たよって来た時から見ると、お今の心が大分自分から離れていることなどが、お増にもちらちら感ぜられた。自分の家のような心易さで、お互いに往来《ゆきき》のできそうなお今の家庭が、自分の思いどおりに作られそうもないことが寂しくもあり安易でもあった。
「だんだん生意気になりますよ。」
 お増は夫婦でお今の噂をしている折々などに、浅井に話したが、笑って聞いている浅井はそれを受け入れそうにも見えなかった。
「あなたがちやほやするから、なおさらなんですよ。」
「まさか。世間がそうなんだよ。」
「あなたはやっぱり若い女がいいものだから。」
 浅井はにやにやしていた。
「だから、いい加減に田舎へ還《かえ》す方がいいんですよ。せっかく世話して、喧嘩《けんか》でもしちゃつまらないから。きっとそうなりますよ、終《しま》いには……。」
「それもよかろう。」
 浅井は争いもしなかったが、お今を排斥することは、お増にも心寂しかった。後から後からと、機嫌を取って行く、お今の罪のない様子が、可愛くも思われた。
「そんな深い考えも持ってやしないよ。」
 お増が少し悔いたような時に、浅井の言い出す言葉が、男だけに大様《おおよう》だとも感心されるのであった。
 玄関へあがって来た浅井は、どこか落着きがなかった。酒の気のある顔の疲れが、お増の一瞥《ひとめ》にも解った。
「ちと早いじゃないか。」
 浅井は火の気のまだ残っている火鉢の前に坐ると、言い出した。このごろちょいちょい逢っている女の家で、今日もそれらの人たちに取り捲かれて花などを引いて夜を更かしたのであったが、この三、四日の遊びに浸っていた神経が、興奮と倦怠《けんたい》とに疲れていた。お今の若々しい束髪姿が、そんな時の浅井の心に、悪醇《あくど》い色にただれた目に映る、蒼いものか何ぞのように、描かれていた。
「己は少《わか》い女は嫌いだよ。」
 何か言い出すお増に、始終そう言っていた浅井の頭脳《あたま》に、お今のことが、時々考えられた。

     三十五

 猫板《ねこいた》のうえで、お増が途中から買い込んで来た、苦い羊羹《ようかん》などを切って、二人は茶を飲みながら、ぼそぼそ話していたが、すぐにそこらを片着けて二階へ上って行った。
「あんなものに手を出すなんて、あの爺さんもよっぽど焼きがまわっているんですよ。」
 召使いの少女が妊娠したという、根岸の隠居の噂が、生欠《なまあくび》まじりに浅井の口から話された時、お増はそう言って眉を顰めた。夜更けて馴染みの女から俥に送られて帰って来た良人《おっと》と、しばらくぶりでそうして話しているお増の心には、以前自分のところへ通って来る浅井を待ち受けた時などの、焦燥《いらいら》しさがあった。
 東京近在から来ている根岸の召使いを、お増も一、二度見かけたことがあった。女の身元保証人になっている、女の伯父《おじ》だという男から持ち込まれた難題に、お爺さんも妾のお芳も蒼くなっていた。それを浅井が間《なか》へ入って、綺麗に話をつけてやったのであった。女には、別に男のあるらしいことが、じきに浅井の目に感づかれた。浅井は商業に失敗して、深川の方に逼塞《ひっそく》しているその伯父と一度会見すると、こっちから逆捻《さかね》じを喰わして、少しの金で、事件の片がぴたりついてしまった。
「でも隠居は、やっぱり自分の子だと思っているらしい。私のやり方が、少してきぱきし過ぎるといった顔をしているからおかしい。」
 浅井は重い目蓋《まぶた》をとじながら、懈《だる》そうに笑った。
「あなただって、女には随分|惚《ほ》れる方ですよ。」
 お増はまだ離さずにいた莨を、浅井の口に押しつけなどした。
「ふふ。」と、浅井は今まで一緒にいた女の匂いが、まだ嗅《か》ぎしめられるような顔をして、溜息を洩らした。浅井のその女と、かなり深い関係を作っていることは、前からお増にも感づかれていたが、そんな時には、浅井の活動ぶりも、一層目ざましかった。収入も多かったし、自分のわがままも利いた。お増はその隙に、家をつめて物を拵えたり、金で除《の》けたりすることを怠らなかった。
「あまりやかましく言っちゃ駄目ですよ。遊ぶような時でなくちゃ、お金儲けは出来やしないの。」
 小林の妾などと、女同士寄って、良人の風評《うわさ》などしあうとき、お増はいつもそう言っていた。
「浮気されると思や、腹も立つけれど、きりきり稼がしておくんだと思えば、何でもないじゃないの。私はこのごろそう思っていますの。」
 お増はそうも言った。
 翌朝《あした》目のさめたころには、縁側の板戸がもう開けられてあった。欄干《てすり》には、昨夜《ゆうべ》のお増の着物などがかけられて、薄い冬の日影が、大分たけていた。聞きなれた静子の唱歌の声も、階下から洩れて来た。

     三十六

 じきに、思いがけない縁談のことで、お今が一旦田舎へ呼び戻されることになった。
 お今が、どうしても厭な田舎へ、ちょっとでも行って来なければならぬことに決まるまでに、二度も三度も、兄から手紙が来た。兄は郡役所などへ勤めて、田舎でも野原《のら》へなど出る必要もない身分であったが、かなりな製糸場などを持って、土地の物持ちの数に入っているある家の嫁に、お今をくれることに、肝《きも》を煎《い》ってくれる人のあるのを幸い、浅井に一切を依託してあった妹を急に自分の手に取り戻そうとするのであった。
 婿にあたる男は、以前東京にもしばらく出ていたことがあった。妙に紛糾《こぐらか》った親類筋をたどってみると、その家とお今の家との、遠縁続きになっていることや、その製糸工場の有望なことや、男が評判の堅人《かたじん》だということなどが、兄の心を根柢《こんてい》から動かしたらしかった。
 東京の生活の面白みに、やっと目ざめて来たお今の柔かい胸に、兄の持ち込んで来た縁談が、押石《おもし》のように重くかかって来た。日々に接しているお増夫婦のほしいままな生活すらが、美しい濛靄《もや》か何ぞのような雰囲気《ふんいき》のなかに、お今の心を涵《ひた》しはじめるのであった。
「兄さん、私どうしたらいいんでしょう。」
 お今に長いその手紙を出して見せられた時、兄の言い条の理解のないことが、浅井に腹立たしく思えた。
 お今が、田舎へ呼び戻されることに、同意しているらしいお増が、ちょうど子供をつれて、行きつけの小林の妾宅《しょうたく》へ遊びに行っていた。
「どうといっても、私が喙《くち》を出す限りでもないが……。」
 浅井もお今のために、安全な道を選ばないわけに行かなかった。
「しかしお今ちゃんはどう思うね。」
 浅井は手紙を捲き収めながら、お今の顔を眺めていた。
「わたし?」お今は甘えるような目色をして、「私東京がいいんですの。東京で独立ができさえすれば、私田舎へなぞ行くのは、気が進まないんです。私独立ができるでしょうか。」
「そうなれば、またその談《はなし》にしなければならんがね。それは後の問題として、田舎へ引っ込むのがどうしても厭なら、一応私の方から、兄さんの方へ言って上げてもいい。私にしたところで、兄さんのしかたは少し勝手だと思う。」
 しかし浅井の言ってやったことは、田舎では受け入られそうもなかった。とにかく、本人を一度よこして下さい。この手紙が着き次第すぐにも立たして下さい――そう言って兄の方から折り返し浅井に迫って来た。その手紙は、お増の前にも展《ひろ》げられた。夫婦はちょうどお今をつれて、暮の買物をしに、銀座の方へ出かけて行こうとしているところであった[#「あった」は底本では「あつた」]。新しい足袋《たび》をはいて、入れ替えたばかりの青い畳のうえをそっちこっちわさわさ歩いているお増の衣摺《きぬず》れの音が忙しそうに聞えたり、下駄を出すお今の様子が、浮き浮きして見えたりした。浅井は外出のそわそわした気分を撹《か》き乱されて、火鉢の傍に坐って、手紙を繰り返し眺めていた。
「やっぱり[#「やっぱり」は底本では「やつぱり」]返してくれと言うんでしょう。」
 お増も、半襟を掻き合わせなどしながら、傍へ寄って来た。
「返した方がよござん
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