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徳田秋声
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)下谷《したや》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大分|自暴気味《やけぎみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鑞」の「金」に変えて「魚」、第4水準2−93−92]
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一
最初におかれた下谷《したや》の家から、お増《ます》が麹町《こうじまち》の方へ移って来たのはその年の秋のころであった。
自由な体になってから、初めて落ち着いた下谷の家では、お増は春の末から暑い夏の三月《みつき》を過した。
そこは賑《にぎ》やかな広小路の通りから、少し裏へ入ったある路次のなかの小さい平家《ひらや》で、ついその向う前には男の知合いの家があった。
出て来たばかりのお増は、そんなに着るものも持っていなかった。遊里《さと》の風がしみていたから、口の利き方や、起居《たちい》などにも落着きがなかった。広い大きな建物のなかから、初めてそこへ移って来たお増の目には、風鈴《ふうりん》や何かと一緒に、上から隣の老爺《おやじ》の禿頭《はげあたま》のよく見える黒板塀《くろいたべい》で仕切られた、じめじめした狭い庭、水口を開けると、すぐ向うの家の茶の間の話し声が、手に取るように聞える台所などが、鼻がつかえるようで、窮屈でならなかった。
その当座昼間など、その家の茶の間の火鉢《ひばち》の前に坐っていると、お増は寂しくてしようがなかった。がさがさした縁の板敷きに雑巾《ぞうきん》がけをしたり、火鉢を磨《みが》いたりして、湯にでも入って来ると、後はもう何にもすることがなかった。長いあいだ居なじんだ陽気な家の状《さま》が、目に浮んで来た。男は折り鞄《かばん》などを提げて、昼間でも会社の帰りなどに、ちょいちょいやって来た。日が暮れてから、家から出て来ることもあった。男は女房持ちであった。
お増は髪を丸髷《まるまげ》などに結って、台所で酒の支度をした。二人で広小路で買って来た餉台《ちゃぶだい》のうえには、男の好きな※[#「鑞」の「金」に変えて「魚」、第4水準2−93−92]《からすみ》や、鯛煎餅《たいせんべい》の炙《あぶ》ったのなどがならべられた。近所から取った、鰻《うなぎ》の丼《どんぶり》を二人で食べたりなどした。
いつも肩のあたりの色の褪《さ》めた背広などを着込んで、通って来たころから見ると、男はよほど金廻りがよくなっていた。米琉《よねりゅう》の絣《かすり》の対《つい》の袷《あわせ》に模様のある角帯などをしめ、金縁眼鏡をかけている男のきりりとした様子には、そのころの書生らしい面影もなかった。
酒の切揚げなどの速い男は、来てもでれでれしているようなことはめったになかった。会社の仕事や、金儲《かねもう》けのことが、始終頭にあった。そして床を離れると、じきに時計を見ながらそこを出た。閉めきった入口の板戸が急いで開けられた。
男が帰ってしまうと、お増の心はまた旧《もと》の寂しさに反《かえ》った。女房持ちの男のところへ来たことが、悔いられた。
「お神さんがないなんて、私を瞞《だま》しておいて、あなたもひどいじゃないの。」
来てから間もなく、向うの家のお婆さんからそのことを洩《も》れ聞いたときに、お増はムキになって男を責めた。
「誰がそんなことを言った。」
男は媚《こ》びのある優しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったが、驚きもしなかった。
「嘘《うそ》だよ。」
「みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪《たず》ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。」
「へへ。」と、男は笑った。
「その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。」
「くだらないこといってら。」
「私はうまく瞞されたんだよ。」
男は床の上に起き上って、襯衣《シャツ》を着ていた。お増は側《そば》に立て膝《ひざ》をしながら、巻莨《まきたばこ》をふかしていた。睫毛《まつげ》の長い、疲れたような目が、充血していた。露出《むきだ》しの男の膝を抓《つね》ったり、莨の火をおっつけたりなどした。男はびっくりして跳《は》ねあがった。
二
しかし男も、とぼけてばかりいるわけには行かなかった。三、四年前に一緒になったその細君が、自分より二つも年上であること、書生のおりそこに世話になっていた時分から、長いあいだ自分を助けてくれたことなどを話して聞かした。そのころその女は少しばかりの金をもって、母親と一緒に暮していた。
「それ御覧なさい。世間体があるから当分別にいるなんて、私を瞞しておいて。」
二人は長火鉢の側へ来て、茶を飲んでいた。餉台《ちゃぶだい》におかれたランプの灯影《ひかげ》に、薄い下唇《したくちびる》を噛《か》んで、考え深い目を見据《みす》えている女の、輪廓《りんかく》の正しい顔が蒼白く見られた。
「けどその片《かた》はじきにつくんだ。それにあの女には、喘息《ぜんそく》という持病もあるし、とても一生暮すてわけに行きゃしない。」
男は筒に煙管《きせる》を収《しま》いこみながら、呟《つぶや》いた。
「喘息ですって。喘息って何なの。」
「咽喉《のど》がぜいぜいいう病気さ。」
「ううん、そんなお客があったよ。あれか。」
お増は想い出したように笑い出した。
「お酒飲んだり、不養生すると起るんだって、あれでしょう。厭だね。あなたはそんなお神さんと一緒にいるの。」
お増は顔を顰《しか》めて、男の顔を見た。男はにやにや笑っていた。
「でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。」
「なに、要するに金の問題さ。」
「いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他《ほか》へ片着くてわけに行かないでしょう。」
お増は考え深い目色をした。しかし深く男を追窮することも出来なかった。
「あなたの神さんを、私一度見たいわね。」
お増は男の心でも引いて見るように言った。
「つまらない。」
男は鼻で笑った。
「それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。」
「やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。」
「こわいこわくないよりうるさい。」
「じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家《やきもちやき》なんだよ。」
「お前はどうだい。」
「ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎《いなか》へ帰って行ったっていいんだわ。」
お増はそう言って笑っていたが、商売をしていた時分の傷のついたことを感ぜずにはいられなかった。
近所が寝静まるころになると、お増はそこに独《ひと》りいることが頼りなかった。床に入ってからも、容易に寝つかれないような晩が多かった。夜の世界にばかり目覚めていたお増の頭には、多勢の朋輩《ほうばい》やお婆さんたちの顔や声が、まだ底にこびりついているようであった。抱擁すべき何物もない一晩の臥床《ねどこ》は、長いあいだの勤めよりも懈《だる》く苦しかった。太鼓や三味《しゃみ》の音も想い出された。
男の傍《そば》にいる神さんの顔や、部屋の状《さま》が目に見えたりした。
三
「お増さん、花をひくからお出でなさい。」
お増が大抵一日入り浸っている向うの家では、お千代婆さんが寂しくなると、入口の方から、そういって声かけた。
その家では、男の子供の時分の友達であった長男が、遠国の鉱山に勤めていた。小金を持っているお千代婆さんは、今一人の少《わか》い方の子息《むすこ》の教育を監督しながら女中一人をおいて、これという仕事もなしに、気楽に暮していた。
お増はここへ来てから、台所や買物のことでなにかとお千代婆さんの世話になっていた。髪結の世話をしてもらったり、湯屋へつれていってもらったり、寄席《よせ》へ引っ張られて行ったりなどした。
「何にも知らないものですから、ちと何かを教えてやってください。」
お増を連れ込んで来た時に、男はそう言ってお千代婆さんに頼んだ。
「浅井さん、あなたそんなことなすっていいんですか。知れたらどうするんです。私までがあなたの奥さんに怨《うら》まれますよ。」
お千代婆さんは少し強《きつ》いような調子で言った。婆さんは早く良人《おっと》に訣《わか》れてから、長いあいだ子供の世話をして、独りで暮して来た。浅井などに対すると、妙に硬苦《かたくる》しい調子になるようなことがあった。女の話などをすると、いらいらしい色が目に現われることさえあった。
宵《よい》っ張《ぱ》りの婆さんは寂しそうな顔をして、長火鉢の側で何よりも好きな花札を弄《いじ》っていた。
「差《さ》しで一年どうですね。」などと、お婆さんはお増の顔を見ると、筋肉の硬張《こわば》ったような顔をして言った。
「私それとなく神さんのことについて、今少し旦那《だんな》の脂《あぶら》を取ってやったところなのよ。」
お増は坐ると、いきなり言い出した。
「それで浅井さんはどう言っていなさるのです。」
「出すというんですよ。」
「どうかな、それは。書生時分から、あの人のために大変に苦労した女ですよ。それに今じゃとにかく籍も入って、正当の妻ですからの。」
「でも喘息が厭《いや》だから、出すんですって。」
「そんなことせん方がいいがな。あなたもそれまでにして入《はい》り込んだところで、寝覚めがよくはないがな。」
「私はどうでもいいの。あの人がおきたいなら置くがよし、出したいなら出すがいいんだ。」
お増は捨て鉢のような言い方をして、節の伸びた痩《や》せた手に、花の親見をした。
「あれあんたが親だ。」
お千代婆さんは、札をすっかりお増に渡した。
「奢《おご》りっこですよ、小母さん。」お増は器用な手様《てつき》で札を撒《ま》いたり頒《わ》けたりした。興奮したような目が、ちらちらしたり、頭脳《あたま》がむしゃくしゃしたりして、気乗りがしなかった。婆さんにまで莫迦《ばか》にされているようなのが、不快であった。
「何だい、またやっているのかい。」
音を聞きつけて、二階から中学出の子息《むすこ》が降りて来た。そして母親の横へ坐って、加勢の目を見張っていた。
お増はむやみと起《おき》が利《き》いた。
「駄目だい阿母《おっか》さん、そんなぼんやりした引き方していちゃ。」
お増は黙って附き合っていたが、じきに切り揚げて帰った。そして家へ帰ると、わけもなく独りで泣いていた。
四
とろとろと微睡《まどろ》むかと思うと、お増はふと姦《かしま》しい隣の婆さんの声に脅《おびや》かされて目がさめた。お増は疲れた頭脳《あたま》に、始終何かとりとめのない夢ばかり見ていた。その夢のなかには、片々《きれぎれ》のいろいろのものが、混交《ごっちゃ》に織り込まれてあった。どうしたのか、二、三日顔を見せない浅井の、自分のところへ通って来たころの洋服姿が見えたり、ほかの女と一緒に居並んでいる店頭《みせさき》の薄暗いなかを、馴染《なじ》みであった日本橋の方の帽子問屋の番頭が、知らん顔をして通って行ったりした。お増はそれを呼び返そうとしたけれど、誰かの大きな手で胸を圧《おさ》えつけられているようで、声が出なかった。
廊下で喧嘩《けんか》をしている、尖《とん》がった新造《しんぞ》の声かと思って、目がさめると、それが隣りの婆さんであった。そこへ後添いに来たとか聞いている婆さんは、例の禿頭の爺さんを口汚くやり込めているのであった。
「おやまたやっているよ。」
お増はそう思いながら、やっと自分が自分の匿《かく》されている家に、蚊帳《かや》のなかで独り寝ているのだということが頭脳《あたま》にはっきりして来た。見ると部屋にはしらしらした朝日影がさし込んでいた。外は今日も暑い日が照りはじめているらしい。路次のなかの水道際《すいどうぎわ》に、ばちゃばちゃという水の音がしてバケツ
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