の鉉《つる》の響きが燥《はしゃ》いで聞えた。
婆さんは座敷の方へ来たり、台所の方へ来たりしながら喚《わめ》いていると見えて、その声が遠くなったり、近くなったりした。爺さんも合間合間に何か言っていた。爺さんと婆さんとが夜中などに喧嘩していることは、これまでにもたびたびあった。その意味はお増にも解った。蒼《あお》い顔をしている、しんねりむっつりした爺さんのところでは、よく神さんが逃げて行った。
「あの爺さんは吝《けち》だから、誰もいつきはしませんよ。」
お千代婆さんはそう言っていたが、そればかりではないらしかった。
「いいえ、あの爺さんは、きっと夜がうるさいんですよ。」
お増はお千代婆さんに話したが、お千代婆さんは妙な顔をしているきりであった。
よく眠れなかったお増は、頭脳《あたま》がどろんと澱《よど》んだように重かった。そして床のなかで、莨《たばこ》をふかしていると、隣の時計が六時を打った。お増は、朝寝をするたびに、お千代婆さんに厭味を言われたりなどすると、自分で、このごろめっきり、まめであった昔の少《わか》い時分の気分に返ることが出来てきたので、これまでのような自堕落《じだらく》な日を送ろうとは思っていなかった。小遣いの使い方なども、締っていた。
「あなたの収入はこの節いくらあるんですよ。」
お増は浅井に時々そんなことを訊《たず》ねた。
浅井の収入は毎月決まっていなかった。
「家の生活《くらし》は、いくら費《かか》るんですよ。」
お増は、それも気になった。
「さあ、そいつも決まっていないね。しかし生活《くらし》には何ほどもかかりゃしない。ただ彼奴《あいつ》は時々酒を飲む。それから余所《よそ》へ出て花をひく。それが彼《あれ》の道楽でね。」
「たまりゃしないわ、それじゃ。あなたのお神さんは、きっと何かにだらしがないんですよ。」
浅井も、それには厭気がさしていた。
「私なら、きっときちんとして見せますがね。」
お増は自信あるらしく言った。そしてしばしば生活の入費の計算などをして見るのであった。それがお増には何より興味があった。
「おや、人の家の生活費《くらし》の算盤《そろばん》をするなんて自分のものにもなりゃしないのに。莫迦莫迦《ばかばか》しい、よそうよそう。」
お増は、そう言ってつまらなさそうに笑い出した。
五
ここへ落ち着いてから、一度ちょっと訪ねたことのある友達の顔が、またなつかしく憶《おも》い出された。お雪というその友達は、お増と前後して同じ家にいた女であった。一度人の妾《めかけ》になって、子まで産んだことのあるお雪は、お増よりも大分年上であった。お増は気振りなどのさっぱりしたその女と誰よりも親しくしていた。
女の亭主は、もとかなり名の聞えた新俳優であった。ずっと以前に政治運動をしたことなどもあった。お増は、口元の苦味走った、目の切れの長いその男をよく知っていた。
「また青柳《あおやぎ》がやって来たよ。」
お雪と喧嘩などをして、切れたかと思うと、それからそれへと渡り歩いていた旅から帰って来て、情婦《おんな》の部屋へ坐り込んでいるその男の噂《うわさ》が、お増の部屋へ、一番早く伝わった。
旅稼《たびかせ》ぎから帰って来た青柳は、放浪者のように窶《やつ》れて、すってんてんになってお雪のところへ転げこんで来るのであったが、お雪は切れた切れたと言いながら、やはり男の帰って来るのを待っていた。その家でも、一番よく売れたお雪は、娘を喰いものにしている一人の母親のお蔭で、そのころ大分|自暴気味《やけぎみ》になっていた。大きなもので酒を呷《あお》ったり、気の向かない時には、小っぴどく客を振り飛ばしなどした。二人とも、今少し年が若かったら、情死もしかねないほど心が爛《ただ》れていた。傍で見ているお増などの目に凄《すご》いようなことが、時々あった。
そこを出るとき、お雪の身に着くものと言っては、何にもなかった。箪笥《たんす》がまるで空《から》になっていた。以前ついていた種のいい客が、一人も寄りつかなくなっていた。お雪は着のみ着のままで、男のところへ走ったのであった。
浅草のある劇場の裏手の方の、その家を初めて尋ねて行った時、青柳の何をして暮しているかが、お増にはちょっと解らなかった。
「良人《うち》はこのごろ妙なことをしているんだよ。」
お雪はお増を長火鉢の向うへ坐らせると、いきなり話しだした。見違えるほど血色に曇《うる》みが出来て、髪なども櫛巻《くしま》きのままであった。丈《たけ》の高い体には、襟《えり》のかかった唐桟柄《とうざんがら》の双子《ふたこ》の袷《あわせ》を着ていた。お雪はもう三十に手の届く中年増《ちゅうどしま》であった。
「へえ、何しているの。」
などとお増は、そこへ土産物《みやげもの》の最中《もなか》の袋を出しながら、訊ねた。そこからは、芝居の木の音や、鳴物《なりもの》の音がよく聞えた。
「何だか当ててごらんなさい。」
「相場?」
「そんな気の利いたものじゃないんだよ。」
お雪は莨を吸いつけて、お増に渡した。
「会社?」
「あの男に、堅気の勤務《つとめ》などが出来るものですか。」
お雪はそう言いながら、煤《すす》ぼけた押入れの中から何やら、細長い箱に入ったものや、黄色い切《きれ》に包んだ、汚らしい香炉《こうろ》のようなものを取り出して来た。
「お前さんの旦那は工面がいいんだから、この軸を買ってもらっておくんなさいよ。何だか古いもので、いいんだとさ。」
燻《ふす》ぐれた軸には、岩塊《いわころ》に竹などが描かれてあった。
六
日中の暑い盛りに、お増はまたそこへ訪ねて行った。
お増は昨夜《ゆうべ》の睡眠不足で、体に堪えがたい気懈《けだる》さを覚えたが、頭脳《あたま》は昨夜と同じ興奮状態が続いていた。薄暗い路次の中から広い通りへ出ると、充血した目に、強い日光が痛いほど沁み込んで、眩暈《めまい》がしそうであった。お増は途中でやとった腕車《くるま》の幌《ほろ》のなかで、やはり男の心持などを考え続けていた。
お雪の家では、夫婦とも昼寝をしていた。青柳は縁の爛れたような目に、色眼鏡をかけて、筒袖の浴衣《ゆかた》に絞りの兵児帯《へこおび》などを締め、長い脛《すね》を立てて、仰向けになっていた。少し離れて、お雪も朱塗りの枕をして、団扇《うちわ》を顔に当てながらぐったり死んだようになっていた。部屋のなかには涼しい風が通って近所は森《しん》としていた。鉄板《ブリキ》を叩《たた》く響きや、裏町らしい子供の泣き声などが時々どこからか聞えて来た。
「よく寝ていること。随分気楽だね。」
お増は上へあがったが、坐りもせずに醜い二人の寝姿をしばらく眺めていた。
「いくら男がいいたって、私ならこんな人と一緒になぞなりゃしない。先へ寄ってどうするつもりだろう。」
お増はそんなことを考えながら、火鉢の側へ寄って、莨を喫《ふか》していた。
「おや、お増さん来たの。」
お雪はそう言って、じきに目をさました。
「大変なところを見られてしまった。いつ来たのさ。」
お雪は襟を掻き合わせたり、髪を撫《な》であげたりしながら、火鉢の前へ来て坐った。
お増はへへと笑っていた。
「この暑いのに、よく出て来たわね。」
「何だかつまらなくてしようがないから、遊びに来たのよ。」
「へえ、お前さんでもそんなことがあるの。」
お雪は火鉢の火を掻き起しながら、「あなたやあなたや。」と青柳を呼び起した。青柳はちょっと身動きをしたが、寝返りをうつと、またそのまま寝入ってしまった。
お雪が近所で誂《あつら》えた氷を食べながら、二人で無駄口を利いていると、じきに三時過ぎになった。かんかん日の当っていた後の家の亜鉛屋根《トタンやね》に、蔭が出来て、今まで昼寝をしていた近所が、にわかに目覚める気勢《けはい》がした。
お増は浅井の身のうえなどを話しだしたが、お雪は身にしみて聞いてもいなかった。
「へえ、あの人お神さんがあるの。でもいいやね。そんな人の方が、伎倆《はたらき》があるんだよ。」
「いくら伎倆があっても、私気の多い人は厭だね。車挽《くるまひ》きでもいいから、やっぱり独りの人がいいとつくづくそう思ったわ。」
青柳が不意に目をさました。
「よく寝る人だこと。」
お雪はその方を見ながら、惘《あき》れたように笑った。青柳は太いしなやかな手で、胸や腋《わき》のあたりを撫で廻しながら、起き上った。そして不思議そうに、じろじろとお増の顔を眺めた。
「どうもしばらく。」お増はあらたまった挨拶をした。
青柳はきまりの悪そうな顔をして、お叩頭《じぎ》をした。
「ごらんの通りの廃屋《あばやら》で、……私もすっかり零落《おちぶ》れてしまいましたよ。」
「でも結構なお商売ですよ。」
「は、この方はね、好きの道だものですから、まあぽつぽつやっているんですよ。そのうちまた此奴《こいつ》の体を売るようなことになりゃしないかと思っていますがね。」
「もう駄目ですよ。」お雪は笑った。
間もなく青柳は手拭をさげて湯に行った。
七
「あの人随分変ったわね。頭顱《あたま》の地が透けて見えるようになったわ。」
お増は笑いながら、青柳の噂をした。
「ああすっかり相が変ってしまったよ。更《ふ》けて困る困ると言っちゃ、自分でも気にしているの。それに私もっと、あの社会で幅が利くんだと思っていたら、からきし駄目なのよ。以前世話したものが、皆な寄りつかなくなっちゃったくらいだもの。」
「でも何でも出来るから、いいじゃないの。」
「いいえ、どれもこれも生噛《なまかじ》りだから駄目なのよ。でも、こんな商業《しょうばい》をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。」
お雪は苦笑していた。
「それから見れば、お増さんなぞは僥倖《しあわせ》だよ。せいぜい辛抱おしなさいよ。」
お雪は、今外交官をしている某《なにがし》の、まだ書生でいる時分に、初めて妾に行ったときのことなどを話しだした。そして当然そこの夫人に直される運命を持っていたお雪は、田舎でもかなりな家柄の人の娘であった。二人の間には、愛らしい女の子まで出来ていたのであった。
「どうしてそこへ行かないの。」
「もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。」
お雪はそのころのことを憶い出すように、目を輝かした。その時分お雪はまだ二十歳《はたち》を少し出たばかりであった。色の真白い背のすらりとした貴婦人風の、品格の高い自分の姿が、なつかしく目に浮んで来た。
「それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆《ちん》のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪《えら》いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様《あべこべ》に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚《ほ》れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父《おとっ》さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。」
「あなた子供に逢いたくはないの。」
「逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託《あず》けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼《うち》へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、※[#「口+愛」、第3水準1−15−23]《おくび》に
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