も出しゃしなかったの。」
「つまらないじゃありませんか。」
「しかたがない。私にそれだけの運がないんだから。」
「ちっとお金の無心でもしたらいいじゃないの。」
「どうして、奥さんが大変な剛毅《しっかり》ものだとさ。」

     八

「随分|諦《あきら》めがいいわねえ。」
 お増は、自分にもそれと同じような記憶が、新たに胸に喚《よ》び起された。まだ東京へ出ない前に、しばらくいたことのある田舎の町のお茶屋の若旦那と自分との間の関係などが思い浮べられた。その時分のお増はまだ若かった。写真などに残っている、そのころのお増の張りのある目や、むっつり肉をもった頬や口元には、美しい血が漲《みなぎ》っていた。
 コートなどを着込んで、襟捲きで鼻のあたりまでつつんだ、きりりとした顔や、小柄な体には、何でもやり通すという意気と負けじ魂があった。
 お増の田舎では、縹緻《きりょう》のよい女は、ほとんど誰でもすることになっている茶屋奉公に、お増もやられた。百姓家に育ったお増は、それまで子守児《こもりこ》などをして、苦労の多い日を暮して来た。
 やっと中学を出たばかりの、そのお茶屋の若旦那は、時々よその貸し座敷などから、そっと口をかけた。浪の音などの聞える船着きの町の遊郭には、入口の薄暗い土間に水浅黄色の暖簾《のれん》のかかった、古びた大きい妓楼《ぎろう》が、幾十軒となく立ちならんでいた。上方風の小意気な鮨屋《すしや》があったり、柘榴口《ざくろぐち》のある綺麗な湯屋があったりした。廓《くるわ》の真中に植わった柳に芽が吹き出す雪解けの時分から、黝《くろ》い板廂《いたびさし》に霙《みぞれ》などのびしょびしょ降る十一月のころまでを、お増はその家で過した。町に風評《うわさ》が立って、そこにいられなくなったお増は、東京へ移ってからも、男のことを忘れずにいた。そこのお神に据わる時のある自分をも、長いあいだ心に描いていた。男からも、時々手紙が来た。
「この人が死んじゃったんじゃしようがない。」
 三年ほど前に、男の亡《な》くなったことが、お増の耳へ伝わった時、それがにわかに空頼《そらだの》めとなったのに、力を落した。お増はまた、通って来る客のなかから、男を択《えら》ばなければならなかったが、その男は容易に見つからなかった。長いあいだには、いろいろの男がそこへ通って来た。こっちでよいと思う男は、先で思っていなかったり、親切にされる男は、こっちで虫が好かなかったりなどした。年が合わなかったり、商売が気に入らなかったりした。双方いいのは親係りであった。主人持ちであった。
 するうちに、お増はだんだん年を取って来た。出る間際のお増の心には、堅い一人の若いお店《たな》ものと浅井と、この二人が残ったきりであった。
 男のために、始終裸になっていたお雪と自分とを、お増は心のなかで比べていた。
「だらしがないじゃないの。いつまで面白いことが続くもんじゃないよ。」
 お増は一緒にいる時分から、時々お雪にそう言ってやったことがあった。けれどお雪自身は、それをどうすることも出来なかった。一つは、一時|新造《しんぞ》に住み込んでまで、くっついていた母親が、お雪に自分のことばかりを考えさせておかなかったのではあったが、黒田の世話になっていた時分からの、お雪自身の体にも、そうした血が流れていたのであった。
 しみじみした話が、日の暮れまで絶えなかった。
「あの人の、どこがそんなにいいのさ。」
 お増はお雪に揶揄《からか》った。
「こうなっちゃ、いいも悪いもありゃしないよ。しかたなしさ。」
 お増をそこまで送りに出たお雪は、そう言って笑った。
 町には灯影が涼しく動いて、濡れた地面《じびた》からは、土の匂いが鼻に通って来た。

     九

 日が暮れてからは、風が一戦《ひとそよ》ぎもしなかった。お増は腕車《くるま》から降りて、蒸し暑い路次のなかへ入ると、急に浅井が留守の間に来ていはせぬかという期待に、胸が波うった。しばらく居なじんだ路次は、いつに変らず静かで安易であった。先の望みや気苦労もなさそうな、お雪などのとりとめのない話に、撹《か》き乱されていた頭脳《あたま》が日ごろの自分に復《かえ》ったような落着きと悦びとを感じないわけに行かなかった。浅井一人に、自分の生活のすべてが繋《かか》っているように思われた。男の頼もしさが、いつもよりも強い力でお増の心に盛り返されて来た。
「ただいま。」
 お増は鍵《かぎ》をあずけて出た、お千代婆さんの家の格子戸を開けると、そういって声かけた。
 茶の間のランプが薄暗くしてあった。水口の外に、女中が行水を使っているらしい気勢《けはい》がしたが、土間にははたして浅井の下駄もあった。
「おや二階でまた始まっているんだよ。」
 お増は浅井に済まないような、拗《す》ねて見せたいようななつかしい落着きのない心持で、急いで梯子段《はしごだん》をあがった。
 風通しのよい二階では、障子をしめた窓の片蔭に、浅井や婆さんや、よくここへ遊びに来る近所の医者などが一塊《ひとかたまり》になって、目を光らせながら花に耽《ふけ》っていた。顔を見るたんびに、体を診《み》てやる診てやると言ってはお増に揶揄《からか》いなどするその医者は、派手な柄の浴衣《ゆかた》がけで腕まくりで立て膝をしていた。線の太いようなその顔が、何となし青柳の気分に似通っているようで、気持が悪かった。
「お帰んなさい。」
 医者が声かけた。
「どこへ何しに行っていたんです。お増さんがついていないもんだから、浅井さんがさんざんの体《てい》ですよ。」
 浅井がハハハと内輪な笑い声を洩らした。
 お増は火入れに吸殻などの燻《いぶ》っている莨盆を引き寄せて、澄まして莨を喫《ふか》していた。そしてこの二、三日男が何をしていたかを探るように、時々浅井の顔を見たが、いつもより少し日焼けがしているだけであった。
「神さんに感づかれやしないの。」
 お増は二年ばかり附き合ってから、浅井と前後してじきに家へ帰ると、蒸し蒸しするそこらを開け放しながら言い出した。向うの女中が火種を持って来てくれなどした。
 浅井はにやにやしていた。
「それでもちっとは東京の町が行《ある》けるようになったかい。」
「ううん、何だかつまらなかったから、浅草のお雪さんの家を訪ねて見たの。」
 お増は背筋のところの汗になった襦袢《じゅばん》や白縮緬《しろちりめん》の腰巻きなどを取って、縁側の方へ拡げながら言った。
「こら、こんなに汗になってしまった。」
 お増は裸のままで、しばらくそこに涼んでいた。
「何か食べるの。」
「そうだね、何か食べに出ようか。」
「ううん、つまらないからお止《よ》しなさいよ。」
 お増は台所で体を拭くと、浴衣のうえに、細い博多《はかた》の仕扱《しごき》を巻きつけて、角の氷屋から氷や水菓子などを取って来た。そして入口の板戸をぴったり締めて内へ入って来た。
 お増はこの二、三日の寂しさを、一時に取返しをつけるような心持で、浅井の羽織などを畳んだり、持物をしまい込みなどして、ちびちび酒を飲む男の側で、団扇《うちわ》を使ったり、酒をつけたりした。そして時々時間を気にしている浅井の態度が飽き足りなかった。

     十

 その晩そこに泊った浅井が、明朝《あした》目を醒《さ》ましたのは大分遅くであった。その日もじりじり暑かった。昨夜《ゆうべ》更けてから、寝床のなかで、どこかの草間《くさあい》や、石の下などで啼《な》いている虫の音を聞いた時には、もう涼しい秋が来たようで、壁に映る有明けの灯影や、枕頭《まくらもと》におかれたコップや水差し、畳の手触りまでが、冷やかであったが、睡《ねむ》りの足りない頭や体には、昼間の残暑は、一層じめじめと悪暑く感ぜられた。
 浅井を送り出してから、お増はまた夜の匂いのじめついているような蒲団のなかへ入って、うとうとと夢心地に、何事をか思い占めながら気懈《けだる》い体を横たえていた。その懈さが骨の髄まで沁《し》み拡がって行きそうであった。障子からさす日の光や、近所の物音――お千代婆さんの話し声などの目や耳に入るのが、おそろしいようであった。
「こんなことをしていちゃ、二人の身のうえにとてもいいことはないね。」
 昨夜浅井が床のなかで言ったことなどが思い出された。
「真実《ほんとう》だわ。罪だわ。」
 お増も、枕の上へ胸からうえを出して、莨を喫《す》いながら呟《つぶや》いた。お増の目には、麹町の家に留守をしている細君の寂しい姿が、ありあり見えるようであった。苦しい心持も、身につまされるようであった。
「いつかはきっと見つかりますよ。見つかったらそれこそ大変ですよ。」
 お増の顔には、悪い夢からでもさめかかった人のような、苦悩と不安の色が漂っていた。
「ふふん。」
 浅井は鼻で笑っていた。
「こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。」
「けれど、あの女もよくないよ。彼奴《あいつ》さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己《おれ》だってそう莫迦《ばか》な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。」
「でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。」
「尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介《やっかい》かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。」
 留守のまに、細君が知合いの家で、よく花を引いて歩いたり、酒を飲んだり、買食いをしたりすることなどを、浅井はお増にこぼした。それに病気が起ると、夜中でも起きて介抱してやらなければならなかった。それだけでも浅井の妻を嫌う理由は、充分であった。同棲《どうせい》している細君の母親も、浅井のためには、親切な老人ではなかった。部屋のなかが、始終引っ散らかっていたり、食べ物などの注意が、少しも行き届かなかったりした。
 お増には、浅井も気の毒であったが、細君も可哀そうであった。細君と別れさすのが薄情なような気がしたり、意気地がないように思えたりした。
 お増は長く床のなかにもいられなかった。そしてひとしきりうつらうつらと睡りに陥《お》ちかかったかと思うと、じきに目がさめた。
 その日から、浅井は三、四日ここに寝泊りしていた。ちょいちょい用を達《た》しに外へ出て行っては、帰って来た。浅井はそのころいろいろのことに手を拡げはじめていた。

     十一

「今日はちょっと家へ行って見て来ようかな。」
 浅井はある朝寝床から離れると、少し開けてあった障子の隙から、空を眺めながら呟いた。空は碧《あお》く澄みわたって、白い浮雲の片《きれ》が生き物のように動いていた。浅井の耽り疲れた頭には、主《あるじ》のいない荒れた家のさまや、夜もおちおち眠れない細君の絶望の顔が浮んで来た。ついこのごろよそから連れ込んで来て、細君に育てさしている、今茲《ことし》四つになる女の子のことも、気にかかりだした。髪なども振り散らかしたままで、知合いや友人の家を、そっちこっち探しまわっているに決まっている細君の様子も、目に見えるようであった。
「うっかりしていると、ここへもやって来ますよ。」
 お増も床の上に起き上りながら言った。
 やがて、浅井が楊枝《ようじ》を啣《くわ》えて、近所の洗湯《せんとう》に行ったあとで、お増はそこらを片着けて、急いで埃《ごみ》を掃き出した。そして鏡台を持ち出して、髪を撫でつけ、鬢《びん》や前髪を立てて、顔を扮《つく》った。充血したような目や、興奮したような頬の色が、我ながら美しく鏡の面に眺められたが、頬骨の出たことや、鼻の尖って来たことが、ふと心に寂しい影を投げた。色が褪《あ》せてから見棄てられるものの悲しさが、胸に湧《わ》き起って来た。
「商売をしたものは、どうしたってそれは駄目さ。」
 浅井のそう言ったことが、思い出された。
「私も早くどうかしなければ……。」
 体の
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